源 平 池 (Genpei-Ike) の 歴 史

源平池の歴史

  1. 寿永元年 (1182年)四月、由比八幡宮から遷宮して二年目、社殿前に広がる水田・絃巻田と呼ばれていた。
    の耕作をやめ、頼朝夫人の政子は、大庭景義おおばかげよし専光坊せんこうぼうしに命じて、三町歩(35,640u)、池をつくる。
    放生池ほうじょういけと考えられる。

    寿永元年 (1182年)五月、木造るりの反橋・太鼓橋が架けられた。朱塗りの橋は『 赤 橋 』といった。
    『 神 橋 』とも言う。


  2. 旗上弁天

    旗上弁天の写真

    旗上弁天

    源氏池の中ノ島に「弁天」がある。
    この画像並びに木造『弁財天坐像』は日本を代表する、弁財天である。

    インドの河の女神・サラスヴァティが日本に伝わり「市寸島比賣ら宗像の三姫神」と習合し

    琵琶を弾く美女像となった。

    木造は運慶作で、膝にのせている琵琶は、平 重盛のものと云われている。


    【旗上弁財天の由来】

     承久の変(1221年5月)の時、旗上弁天の入口にある大杉・「旗上げ杉」の下で北條政子が京に出陣する鎌倉軍を激励したことによる。

     後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北條義時追討の院宣を発した。これに対して、尼将軍・北條政子は出陣の将士たちに対して、

     関東の武士が「はだしで公家の庭先に仕えていた昔・その屈辱を再現させてはならない」と切々と訴え、これに感激し、

     関東の武士団は一致団結し、義時・泰時親子の十万余の軍はここより京に発進し、勝利した。



  3. 江戸時代、「源平池」と呼ばれた。

  4. 赤橋を中央に架け、東側の池に三島、西側の池に四島を築いた。

  5. 明治元年三月、 神仏分離の法令が布告される。 時の窮乏に対応して、源平池の七つの島は取り崩された。
    池全体を蓮田として、蓮根を売ることで、貧困をしのいだ。



  6. 明治七年、 三の鳥居周辺にて日本陸軍の閲兵式を行う。
  7. 閲兵式の写真


     明治7年2月25日〜、日本陸軍は初の天覧軍事演習を鎌倉で行った。

     明治7年4月15日、ここ三の鳥居周辺において、大雨の中、閲兵式を行った。

    それは鎌倉が武家政権発祥の地であったからである。







         《仏軍医 マジェ画;横浜開港資料館》 →


  8. 明治十三年、 現在の島を再構した。


  9. 戦後、  池に 貸しボー トを浮かべ、境内は集団見合の会場にも なつた。。


  10. 《昭和25年頃の源平池風景・白黒写真》 をご覧下さい。

  11. 昭和55年、  鶴岡八幡宮の御創建800年を記念して、源氏池に面し東南部かけて、
     「神苑ぼた庭園」が築かれた。

  12. 「ぼたん庭園」には、ぼたん約100種・1,000株が植えられ、春牡丹は、4月〜5月、冬牡丹は、
    元日〜2月下旬まで、藁囲いのなかで可憐に咲く艶やかにぼたんの花を観出ることができます。
    庭園内には、古来より奇石しされてきた中国蘇州産の太湖石を据えた「古典庭園」もあります。

     
        ↑  古 典 庭 園 
        ↑  ばら庭園の藁囲いの可憐に咲く薔薇の花   2009.早春撮影

  13. 平成2年4月〜12月 赤橋 改修工事が完成し大型の緊急車両の通行が可能となる。