畠山重忠やしき 考 

畠山重忠邸は三幡のいる頼朝邸の南御門 前に位置していた。 

中世における畠山重忠邸・指定地
《 出典 「中世鎌倉 歴史地図」阿部正道・安田三郎共著 》
中世における畠山重忠邸・指定地についての考証

治承4年12月12日、頼朝は仮住まいの 平 広常 宅から新造された大蔵卿の館に入った。

この移徒わたましの儀の行列の先陣を 和田義盛 が、最末を 畠山重忠 が候した。

出仕した武士の人数は311人であった。 これらの御家人が、めいめい鎌倉に宿館をかまえた。

畠山重忠もやしきを構えた。  それは何処だつたのか ?

  1. 『新編鎌倉志』

  2. 「筋替橋ノ西北ヲ畠山重忠ガ屋敷ノ跡ト云フ」

  3. 『鎌倉攬勝考らんしょうこう

  4. 「筋替橋より北の方なる、田圃の地をいふ。右大将家(頼朝)御館の西に続けり。」

  5. 『新編相模国風土記稿』

  6. 「筋替橋ノ坤方うしとら(西南)ニアリ、方一町許。今陸田ヲひらケリ」


    と言うように、三者三様であるが、何故かすべて筋替橋を標準にしている。
    「史跡指導標は、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところの右角に建立している。
    『新編相模国風土記稿』の説をとったと思われる。
    『鎌倉市史』では此の辺りを「政所跡」と考証されている。重忠の屋敷が政所になったのかもしれない。

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