吾 妻 鏡 における 『 三 幡 ( 乙姫 ) の 生 涯 』 の 記 述


【T】 乙姫 重病 、政子 諸社に祈願・修法を行う。    ・・・に関する記 述・・・


《正治元年(1199年)三月五日 丁酉 》 の条 

  故将軍(源 頼朝)の姫君(乙姫君と号す。字は三幡) 去ぬる此より御病悩。御温気ごうんきなり。
  すこぶる危急に及ぶ。
  尼御臺所(北条政子)、所社に祈願あり。諸寺に誦経じゅ きょうを修したまふ。
  また御所において、一字金輪いちじ きんりんの法を修せらる。
  大法師聖尊(阿野少輔公と号す。)これ奉仕す。

  これ近々に候ぜしめ、姫君の御病悩を治療したてまつらんがためなり。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【U】 乙姫の病、針博士 治 療 を 辞退 、する。    ・・・に関する記 述・・・


《正治元年(1199年)三月十二日 甲辰 》 の条 

  姫君(乙姫) 日を追って憔悴せうすいしたまふ。
  こけによって療養を加へたてまつらんがために、針 博士しん はかせ 丹 波 時 長 を召さるるのところ、
  しきりに固辞し、あえて仰せに応ぜず。
  件の時長、当世 名医のほまれれある間、重ねて沙汰あり。 今日 専使を差し上げる。
  なほもってさはりを申さしめば、仔細を仙洞(後鳥羽院)に奏すべき旨、在京の御家人等に仰せらる
  と云々。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【V】 乙姫 診療のため 丹波時長 鎌倉に参着  する。
                      (後鳥羽院の院宣により実現した。)

       時長は、鎌倉到着 の最初 の日は、亀ヶ谷 の 掃部守 親能 (中原親能)の居宅に泊まる。
       翌日の 五月七日、雨降る中 畠山 重忠 の邸宅に移る。   ・・・に関する記 述・・・



《正治元年(1199年)五月七日 戊戍 》 の条 

  雨降る。
  医師 時長 、昨日京都より参著す。左近将監 能直 これを相具す。
  伊勢路を廻りて参向すと云々。
  旅館以下の事は、兵庫頭 ならびに八田右衛門尉知家等、沙汰を致すべきの由、
  御旨を含むものなり。
  今日時長、掃部頭が亀谷の家より、 畠山次郎重忠 が南御門の宅に移り住む。
  これ近々に候ぜしめ、姫君の御病悩を治療したてまつらんがためなり。
  この事度々辞し申すといえども、去月早く関東に参向すべきの旨、院宣を下さるの間、
  かくのごとし。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【W】 丹波時長 、乙姫 に 朱砂丸しゆしゃぐわん 薬を進ずる。

       母 親 の 政子 は、謝礼 に砂金 20両を 時長 に贈った。   ・・・に関する記 述・・・



《正治元年(1199年)五月八日 己亥 》 の条 

  くもる。
  時長、始めて 朱砂丸しゆしゃぐわん を姫君に献ず。
  よって砂金二十両以下の禄を賜る  と云々。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【X】  乙姫 に 少量 食  を摂る。

         恢 復 をこぞつて 喜 ぶ。


《正治元年(1199年)五月二十九日 庚申 》 の条 

  今夕、姫君 いささか御食事 あり。
  上下 喜悦の外なし と云々。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【Y】 六月十二日、 乙姫 、 御目の上が腫  れる。

        六月十四日、   乙姫 、重体  。


《正治元年(1199年)六月十四日 申戌》 の条 

  晴れる。
  姫君 なほ疲労せしめたまふ。
  あまりさへ去ぬる十二日より御目の上腫れたまふ。
  この事殊なる凶相の由、時長 これを驚き申す。
  今においてはそのたのみす少なからんか。
  およそ人力のおよぶところあらざるなり。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【Z】 六月二十五日、中原 親能 京都 より鎌倉に参着す。



《正治元年(1199年)六月二十五日 乙酉》 の条 

  掃部頭親能(中原 親能)、姫君の御事によって京都より参着する。
  ……中 略……。
  今に遅参す と云々。
 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【[】 六月二十六日、丹波時長 京都に帰路  する。



《正治元年(1199年)六月二十六四日 丙戌》 の条 

  医師 時長 帰洛す。
  中将(源 頼家)より馬五疋 、旅粮粮の雑事、送夫二十人、国の雑色二人、ならびに兵士
  これを給わる。

  またひ兵庫頭(大江広元)己以下、馬を引く。
  去ぬる比、身の暇を給はるといえども、守宮(中原親能)令の下向を相待ちて、今に遅留すと 云々。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【\】 乙姫 死す。  



《正治元年(1199年)六月三十日 庚寅》 の条 

    くもる。
  午の剋、 姫君( 三幡 ) 遷化 す (御年 十四)。
  尼御臺所(北条政子)、御嘆息、諸人の傷嗟、これを記すにいとまあらず。

  乳母の夫 掃部頭親能(中原親能)、出家を遂ぐ。定豪法橋蝦戒師かいしたり。
  今夜いぬの剋、姫君を親能の亀谷堂かめがやつどうの傍に葬りたてまつるなり。
  江間殿(北条義時)・兵庫頭(大江広元)・小山左衛門尉(小山朝雅)・三浦介(三浦義澄)・
  結城七郎(結城朝光)・八田右衛門尉(八田知家)・畠山次郎(重忠)・足立左衛門尉(足立遠元)・
  梶原平三(梶原景時)・宇都宮弥三郎(宇都宮頼綱)(最末、素服を著せず)・佐々木小三郎
  (佐々木定高)・藤民部承(二階堂行光)等 供奉す。 おのおの素服 と云々。

 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より


【]】 乙姫の佛事 を 墳墓堂 に修す。  



《正治元年(1199年)七月六日 丙申 》 の条 

    雷 雨。
  今日 姫君の御佛事、墳墓堂においてこれを修せらる。
  尼御臺所(北条政子)、渡御。 導師は宰相阿闇梨尊暁と云々。


 出展;「全訳 吾妻鏡」(貴志正造訳者)より