『吾妻鏡』における 土佐坊昌俊邸跡 (tosanoboo-tei-ato) の記述

土佐坊昌俊邸跡にかんする『吾妻鏡』における記述・・・

《 1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳) 》

10月9日 戊午

  伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。
  この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御 感の仰せを蒙る。
  すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に在り。
  憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。 仍って下野 の国中泉庄を賜うと。
  
   昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。
   行程九箇日たるべきの由定めらると。

10月17日 丙寅

  土左房昌俊、先日関東の厳命を含むに依って、
  水尾谷の十郎已下六十余騎の軍士を相 具し伊豫大夫判官義経の六条室町亭を襲う。

  時に豫州方の壮士等、西河の辺に逍遙 するの間、残留する所の家人幾ばくならずと雖も、
  佐藤四郎兵衛の尉忠信等を相具し、自ら門戸を開き、懸け出て責め戦う。
  行家この事を伝え聞き、後面より来たり加わり、相共に防戦す。
  仍って小時昌俊退散す。

  豫州の家人等、豫州の命を蒙り則ち仙洞に馳 参す。 無為の由を奏すと。

10月26日 乙亥

  土佐房昌俊並びに伴党二人、鞍馬山の奥より、豫州の家人等これを求め獲る。
  今日六 條河原に於いて梟首すと。


  1. 10月17日、梶原景時以下の武将は義経の実力をよく知っているので、義経討伐を辞退していた。

  2. 土佐坊昌俊は頼朝に一層の忠勤を励み、功の恩賞として土地が得たかった、

    生活基盤としての所領への執着、「一所懸命」であった。

    「奉公」に対して「ご恩」として、頼朝は、昌俊に対して、「下野国の中泉庄を与え、老母や子供を保障する」

    ことを約束をした。

    昌俊は義経討伐のため決死の覚悟で83騎を従え、行程9日で京都入りをした。


  3. 10月17日、電光石火、六条室町亭に義経襲撃を試みるたが失敗。鞍馬の山奥に逃げる。


  4. 10月26日、弁慶に捕らえられ、六条河原でさらし首にされいまう。