浮世絵で見る土佐坊昌俊・堀川御所夜襲の図
浮世絵で見る土佐坊昌俊・堀川御所夜襲の図
《 出典 「浮世絵でみる・義仲・義経の生涯」高津市三発行》
この浮世絵は 源平合戦で源氏を勝利に導いた最大の功労者・義経は、梶原景時の讒言等もあり頼朝の勘気をこうむり、
鎌倉に帰還するも腰越で足止めとなり、やむを得ず京都に戻り堀川(六条室町亭)に在住していたところ、
頼朝は義経追討に土佐坊昌俊を派遣した。
1185年(元文治元年)10月17日、土佐坊昌俊は六十余騎の軍士を従えて義経の堀川御所(六条室町亭)を襲う。
土佐坊昌俊の夜襲を、静御前が義経に知らせるところを描いたものである。
《 出典 「浮世絵でみる・義仲・義経の生涯」高津市三発行》
土佐坊昌俊は八十三騎の軍勢を引き連れて京に向かう、街中で義経の武将に会ったが、熊野参りの代参だと偽り、
起請文を書いて信用させ、その夜 堀川御所に夜討ちをかけた。
最初は義経と下部喜三太だけで応戦したが、武蔵坊弁慶・江田源三・片岡八郎・伊勢三郎・佐藤四郎等が駆けつけて土佐坊軍と対戦し
土佐坊の嫡男太郎他数名が生け捕られた。
夜襲に失敗した土佐坊昌俊は鞍馬山に遁れた。しかし鞍馬山には義経に意を通じる人が多く、ここで土佐坊は生け捕りになる。
義経は土佐坊に「鎌倉に帰り、頼朝公に義経に二心なりと伝えろ」と追ったが、土佐坊は拒否した。
1185年(元文治元年)10月26日、土佐坊昌俊は六条河原に送られ梟首された。
《 出典 「週刊 義経伝説紀行 第21号」日経BP社発行》
この浮世絵は 源平合戦で源氏を勝利に導いた最大の功労者・義経は、梶原景時の讒言等もあり頼朝の勘気をこうむり、
鎌倉に帰還するも腰越で足止めとなり、やむを得ず京都に戻り堀川(六条室町亭)に在住していたところ、
頼朝は義経追討に土佐坊昌俊を派遣した。
1185年(元文治元年)10月17日、土佐坊昌俊は六十余騎の軍士を従えて義経の堀川御所(六条室町亭)を襲う。
土佐坊昌俊の夜襲を、静御前が義経に知らせるところを描いたものである。
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