文 覚 上 人 に か ん す る 『 吾 妻 鏡 』 に お け る 記 述 ・・・
《元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳(1185年 )8月30日 庚辰 》 の条
二品、平治の有事、厳閤夭亡し給うの後、毎日転読の法華経を以て、没後の追福に備えらる。
而るに 栄貴を極めしめ給うの今、一伽藍の作事を企てらる。
先考の 御廟をその地に安ずべきの由、 存念御うの間、潛かにこの由を伺い奏せらる。
法皇 また勲功を叡感するの余り、
去る十二日、判官に仰せ、 東の獄門の辺に於いて故左典厩の首を尋ね出され、
正清( 鎌田次郎兵衛の尉と号す )の首を相副え、 江判官公朝勅使としてこれを下さる。
今日 公朝下着す。
仍って 二品これを迎え奉らしめんが為、自ら稲瀬河の辺に参向し給う。
御遺骨は、文學上人の 門弟僧等 頸に懸け奉る。
二品自らこれを請け取り奉り還向す。
時に以前の御装束(練色の水干)を改め素服を着し給う と。
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