『武衛伽藍を草創せんが為、鎌倉中の勝地を求め給う。営の東南に当たり一霊窟有り。 仍って梵宇の営作を彼の所に企てらる。これ父徳を報謝するの素願なり。但し大甞會 御禊已後、地曳始め有るべきの由定めらるるの処、去る月二十五日その儀(大夫判官 義経供奉す)を遂げらるるの間、今日犯土有り。因幡の守・筑後権の守等これを奉行す。 武衛監臨し給うと。 』 |
……(省略)…… 去る十二日、判官に仰せ、東の獄門の辺に於いて故左典厩の首を尋ね出され、 正清(鎌田次郎兵衛の尉と号す)の首を相副え、江判官公朝勅使としてこれを下さる。 ……(省略)…… 御遺骨は、文學上人の門弟僧等頸に懸け奉る。二品自らこれを請け取り奉り還向す。 時に以前の御装束(練色の水干)を改め素服を着し給うと。また播磨の国書写山の事、 二品の御帰依他に異なり。性空上人の聖跡、不断の法華経転読の霊場なり。 尤 も旧の如く興行を致すべきの由、先度ほぼ泰経朝臣の許に仰せられをはんぬ。 重ねて 奏達せらるべきの旨、今日内々御沙汰に及ぶと。 |
子の刻、故左典厩の御遺骨(正清の首を副ゆ)南御堂の地に葬り奉る。路次御輿を用いらる。 恵眼房・専光房等この事を沙汰せしむなり。武蔵の守義信・陸奥の冠者頼隆御輿を舁く。 二品(御素服を着し給う)参り給う。御家人等多く供奉すと雖も、皆郭外に止めらる。 ただ召し具せらる所は、義信・頼隆・惟義等なり。 武州は、平治逆乱 の時先考の御共(時に平賀の冠者と号す)を為す。 頼隆は、またその父毛利の冠者義 隆、亡者の御身に相替わり討ち取られをはんぬ。 彼此旧好の跡を思し食すに依って、これを召し抜かると。 |
天霽風静まる 今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる。 寅の刻、御家人等の中、殊なる健士 を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。 堂の左右に仮屋を構う。左方 は二品の御座、右方は御台所並びに左典厩室家等の御聴聞所なり。 御堂前の簀子を以 て布施取り二十人の座と為す。 山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴 聞所有り。巳の刻、二品(御束帯)御出で。御歩儀。 行列 先ず随兵十四人 畠山の次郎重忠 千葉の太郎胤正 三浦の介義澄 佐貫四郎大夫廣綱 葛西の三郎清重 八田の太郎朝重 榛谷の四郎重朝 加藤次景廉 籐九郎盛長 大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光 北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政 小山の五郎宗政(御劔を持つ) 佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す) 愛甲の三郎季隆(御調度を懸く) 御後五位六位(布衣下括)三十二人 源蔵人大夫頼兼 武蔵の守義信 参河の守範頼 遠江の守義定 駿河の守廣綱 伊豆の守義範 相模の守惟義 越後の守義資(御沓) 上総の介義兼 前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼 皇后宮の亮仲頼 大和の守重弘 因幡の守廣元 村上右馬の助経業 橘右馬の助以廣 関瀬修理の亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 籐判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉の介常胤 同六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門の尉朝綱(御沓手長) 八田右衛門の尉知家 梶原刑部の丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛の尉基清 足立右馬の允遠元(最末) 次いで随兵十六人 下河邊庄司行平 稲毛の三郎重成 小山の七郎朝光 三浦の十郎義連 長江の太郎義景 天野の籐内遠景 渋谷庄司重国 糟屋の籐太有季 佐々木太郎左衛門定綱 小栗の十郎重成 波多野の小次郎忠綱 廣澤の三郎實高 千葉の平次常秀 梶原源太左衛門の尉景季 村上左衛門の尉頼時 加々美の次郎長清 次いで随兵六十人(弓馬の達者を清撰せらる。皆最末に供奉す。御堂上りの後、各々 門外の東西に候す) 東方 西方 足利の七郎太郎 佐貫の六郎 豊嶋権の守 丸の太郎 大河戸の太郎 皆河の四郎 堀の籐太 武藤の小次郎 千葉の四郎 三浦の平六 比企の籐次 天羽の次郎 和田の三郎 同五郎 都築の平太 熊谷の小次郎 長江の太郎 多々良の四郎 那古谷の橘次 多胡の宗太 沼田の太郎 曽我の小太郎 蓬の七郎 中村馬の允 宇治蔵人三郎 江戸の七郎 金子の十郎 春日の三郎 中山の五郎 山田の太郎 小室の太郎 河匂の七郎 天野の平内 工藤の小次郎 阿保の五郎 四方田の三郎 新田の四郎 佐野の又太郎 苔田の太郎 横山の野三 宇佐美の平三 吉河の二郎 西の太郎 小河の小次郎 岡部の小次郎 岡村の太郎 戸崎右馬の允 河原の三郎 大見の平三 臼井の六郎 仙波の次郎 中村の五郎 中禅寺の平太 常陸の平四郎 原の次郎 猪俣の平六 所の六郎 飯富の源太 甘粕の野次 勅使河原の三郎 寺門に入らしめ給うの間、義盛・景時等門外の左右に候し行事す。次いで御堂上り。 胤頼参進し御沓を取る。高綱御甲を着し前庭に候す。観る者これを難ず。脇立を以て 甲の上に着すは失たりと。爰に高綱が小舎人童この事を聞き高綱に告ぐ。高綱嗔って 曰く、主君の御鎧を着すの日、もし有事の時、先ず脇立を取り進すのものなり。巨難 を加うの者、未だ勇士の故実を弁えずと。次いで左馬の頭能保(直衣、諸大夫一人・ 衛府一人を具す)・前の少将時家・侍従公佐・光盛・前の上野の介範信・前の対馬の 守親光・宮内大輔重頼等堂前に着座す。武州已下その傍らに着す。次いで導師公顕伴 僧二十口を率い参堂し、供養の儀を演ぶ。事終わり布施を引かる。比企の籐内朝宗・ 右近将監家景等役送す。これより先布施物等を長櫃に入れ、堂の砌に舁き立つ。俊兼 ・行政等これを奉行す。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・ 義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通等、数反相替 わり布施を取る。 導師分 錦の被物五重 綾の被物五百重 綾二百端 長絹二百疋 染絹二百端 藍摺二百端。 紺二百端 砂金二百両 銀二百両 法服一具(錦の横被を副ゆ) 上童装束十具 馬三十疋(武者所宗親、北條殿御代官としてこれを奉行す)、この内十疋鞍を置く (御家人等これを引く。残る所二十匹は、御厩舎人等傍らに引き立つ) 一の御馬 千葉の介常胤 足立右馬の允遠元 二の御馬 八田右衛門の尉知家 比企の籐四郎能員 三の御馬 土肥の次郎實平 工藤一臈祐経 四の御馬 岡崎の四郎義實 梶原平次景高 五の御馬 浅沼の四郎廣綱 足立の十郎太郎親成 六の御馬 狩野の介宗茂 中條の籐次家長 七の御馬 工藤庄司景光 宇佐美の三郎祐茂 八の御馬 安西の三郎景益 曽我の太郎祐信 九の御馬 千葉の二郎師常 印東の四郎 十の御馬 佐々木の三郎盛綱 二宮の小太郎 次いで加布施、金作の劔一腰・装束念珠(銀の打枝に付く)・五衣一領(松重、簾中 より押し出さると)、已上左典厩これを取らる。この外八木五百石は旅店に送り遣わ さる。次いで請僧分、口別に色々の被物三十重・絹五十疋・染絹五十端・白布百端・ 馬三疋(一匹鞍を置く)なり。毎事美を尽くさずと云うこと莫し。作善の大功を思え ば、すでに千載一遇なり。還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士 等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注 進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已 下宗たる者二千九十六人、その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政・朝光已下五十 八人と。 |