「倭名鈔」(わみょうしょう)という本によると、鎌倉の郡のに『荏草』と記載された郷(ごう)名がある。 現在はその名前は消滅している。 『荏草』はこ此の近辺の古称であったようである。 『草』という字には『かや』と言う古い呼び方があった。現在の『えがら』は『えがや』が 訛って言うようになった。後に文字においても『荏草』が『荏柄』に替わって来たと考えられる。 社前の松並木は古くから馬場と呼んでいた。 本殿には、もと中央に「菅原道真の束帯姿の座像」を、右側には「天拝山で祈っている道真公の立像」、 左側には「本地仏の十一面観音像」を安置したのだが、その勧請の年代は言い伝えがない。 源 頼朝が此の大蔵の地にはじめて幕府を設置した時、この荏柄天神社を鬼門の鎮守神とした。 頼朝以来歴代の将軍はみなこの天神社を尊奉してきた。 徳川氏の時代に、鶴岡八幡宮の造営の度ごとに、その余り材・残り木により本社の修理にあてるのを 慣例として来ました。 昭和四年十二月 鎌 倉 町 青 年 団 |