理智光寺 (richikou-ji-ato) の 歴史 と 仏像 




       寺 名  「五峰山 理智光寺」
       開 山  「願行房憲静」
             (願行は生年が不明であるが、泉涌寺の俊じょう(1166〜1227年) の弟子で「円満」と号していた。)



 □ 文永(1264〜75年)の初め頃、願行は師の意教上人に従って鎌倉に来ている。
         (将軍頼経の帰依を受けていた頼賢は、時頼の招きで下向し、常楽寺に止泊まるしたという。
           そして文永9年には、願行に三宝院流を伝授している。)


    願行は弘安3年には教国護国寺の復興を始めている。従って
    理智光寺は、文永以降弘安までの頃に創建されたものと推定されている。

 □ 建武2年(1335年)には、暗殺された護良親王の亡骸を当院の長老が山頂に埋葬したと伝える。《太平記》

 □ 南北朝頃までは、「理智光院」と言れていた。

 □ 天文十六年(1547年)…当時、利知光寺即ち利智光寺(院)が衰退して、同宗である浄光明寺の慈恩院が
    兼務あるいは管理していた。《浄光明寺文書》

 □ 江戸時代は一時寺の形をしていたらしい。
    「此寺今は尼寺と成、山ノ内の東慶寺の末となれり」  《攬勝考》
    「今は阿弥陀堂のみにして東慶寺の持となれり」    《風土記稿》
       (この阿弥陀堂は谷の入り口、大塔宮墓所の入り口付近にあったという)

 □ 明治初年に廃寺となってしまった。

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    理智光寺の阿弥陀堂の本尊【木造阿弥陀如来坐像】(14世紀前半の作か?)は今は覚園寺に移されてある。
   《新編相模風土記稿》によるとこの像の胎内に霊佛を納めていたのでさや阿弥陀」と呼ばれていたと記してある。
   なお本像の袖内部下面に天狗の絵と共に「相州鎌倉二開(階)堂村 扇ケ谷村仏師後藤左近平繁氏 天狗」と
   の書あり、江戸時代の扇ケ谷 仏師後藤左近平繁氏 の修理にあったことがわかる。

    大楽寺の本尊であった『鉄造不動明王坐像』は、同寺が廃寺となって、今は覚園寺の愛染堂にある。
    もとは、十二所の願行寺こんぎょうじにあって、元弘の乱(1331年)で罹災した後大楽寺にうつされた。《五大堂事跡備考》
   この鉄不動は、試しの不動と呼ばれ、大山寺の本尊不動を鋳るに際し、願行房憲静が試しに鋳たものと
   伝えられている。《大山不動霊験記、覚園寺縁起》


【木造さや阿弥陀如来坐像】  (薬師堂)
『鉄造不動明王坐像』  (愛染堂)
【出展】;「鎌倉廃寺事典」(貫 達人・川副武胤著) 並びに 「覚園寺」(大森順雄著)を参考する。



□ 最近の情報
◇◆◇  護良親王の坐像を鎌倉宮本殿に奉納する  (平成23年12月23日)