理智光寺址 (richikou-ji-ato)の石碑文の説明


☆ 理智光寺址の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   此の地は「願行房憲静」を開山とする、五峯山 理智光寺のあった所である。

  建武二年(1335年) 七月二十三日
  淵辺伊賀守義博は足利直義の命令をうけて、護良(もりなが)親王の命をうばったが、
  亡くなられた親王の怨念の籠もった御顔相に恐れをなしてて、
  親王の首を傍らの藪の中に置いて逃げ去った。

   理智光寺の僧(長老)がその首を拾い取り出して、近くの山頂に埋葬したと言う。


           昭和七年三月 建

                                     鎌 倉 町 青 年 団
                                             金羊書



【人物紹介】
願行房憲静 (がんぎょうぼう のりしづ)      ?〜1295( ?〜永仁3)

願行、諱は憲静、円満と号す。
泉涌寺俊□の弟子で、奈良の智鏡や醍醐の頼賢、意教等に顕蜜の教学を受けて、 願行と呼ばれる法流を立てている。
隆寛から長楽寺流の浄土教も伝え、顕蜜浄律の諸教に秀でた。
大通・泉涌二寺を歴任して後、関東に下り、鎌倉に大楽寺・理智光寺・安養院を開いている。
さらに大山寺の不動明王を鋳造した。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永二編)による