此の地は「願行房憲静」を開山とする、五峯山 理智光寺のあった所である。 建武二年(1335年) 七月二十三日 淵辺伊賀守義博は足利直義の命令をうけて、護良(もりなが)親王の命をうばったが、 亡くなられた親王の怨念の籠もった御顔相に恐れをなしてて、 親王の首を傍らの藪の中に置いて逃げ去った。 理智光寺の僧(長老)がその首を拾い取り出して、近くの山頂に埋葬したと言う。 昭和七年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 金羊書 |
願行、諱は憲静、円満と号す。 泉涌寺俊□の弟子で、奈良の智鏡や醍醐の頼賢、意教等に顕蜜の教学を受けて、 願行と呼ばれる法流を立てている。 隆寛から長楽寺流の浄土教も伝え、顕蜜浄律の諸教に秀でた。 大通・泉涌二寺を歴任して後、関東に下り、鎌倉に大楽寺・理智光寺・安養院を開いている。 さらに大山寺の不動明王を鋳造した。 | |
【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永二編)による |