永安寺址 (youan-ji-at)の石碑文の説明


☆ 永安寺址の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「永安寺ようあんじ」は二階堂・紅葉ケやつにある。
  関東管領足利氏満うじみつが開基である。開山は曇芳和尚である。
  「曇芳和尚」は、名前を「周応」と言い、夢想国師の法を受け継ぎ、建長寺の瑞林庵の始祖である。

   足利氏満は応永五年(1398年)十一月四日(39歳)で亡くなり、その法号を永安寺 「壁山全公」と称した。
   永安寺の寺号はこの法名に基づいている。

  氏満の孫の持氏は時の将軍足利義教よしのりと不和となり、戦いに敗れ勢い窮まった末この寺で自害(42歳)しました。
  時に永享十一年(1439年)二月十日のことであった。…『永享の乱』
  この日、寺容は兵火にかかってその建物を焼失してしまった。此の地は実にその永安寺址である。


            大正十五年三月 建
                                     鎌 倉 町 青 年 会



【人物紹介】
足利 氏満 (あしかが うじみつ)      1359〜1398(正平14〜応永5)

室町時代の武将。第二代鎌倉御所。基氏の子。幼名 金王丸。
九歳で父の跡をつぎ鎌倉の主となる。管領 上杉憲顕がこれを補佐。
武蔵平一揆、新田義宗の乱を鎮める。
正平24年(1369年)元服、左馬頭、従五位下。
天授五年(1379年)、土岐頼康等が管領細川頼之を排斥しょうと画策、
将軍義満は鎌倉に援助を求めた。氏満はこの機に義満を攻め、将軍となる野心を
もったが、上杉憲春の諫死にあって思い止まった。
天授六年(1380年)、小山義政が宇都宮基綱を殺したため、これを征伐、
その後も何回となく義政・その子犬若丸は兵を挙げたが、ついに
応永四年(1397年)これを自刀させた。
翌 応永五年(1398年)11月、氏満も没した(40歳)。
永安寺に葬る。 法名は永安寺壁山道全と称した。
義堂周信に帰依する。
扇ガ谷海蔵寺は氏満の命により上杉氏定(開基)の創建、開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外しんしょうくうがい(源翁禅師)。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永ニ編)東京堂出版による
足利氏満坐像(瑞泉寺)は衣冠束帯姿に造られ、江戸時代の作。 台座裏墨書銘から、円覚寺174世義海昌宣が、正徳六年(1716年)
   に基氏の350年忌に 足利基氏像と共に修理した事が知られる。 瑞泉寺は鎌倉公方家の墓所で公方との係わりが深かった。
    ※   ⇒《木造 足利基氏坐像(瑞泉寺)》  を合わせご参照下さい。


曇芳和尚について



足利氏と上杉氏との関係について
 
鎌 倉 御 所 系 譜 犬 懸 上 杉 氏 系 譜
   

室町時代における足利氏と上杉氏について
※建武元年(1334年)…「建武の新政」鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の朝廷を中心とした「建武の新政が始まる。

            鎌倉では、成良なるよし親王を奉じて、足利尊氏の弟である 足利直義ただよしが相模守とした実権をにぎっていた。

※建武2年(1335年)…「中先代の乱」北條高時の子である時行ときゆきが幕府復活を図って挙兵し、足利直義を武蔵に破った。

            足利直義は鎌倉に流されていた、後醍醐天皇皇子大塔宮護良親王を直義のの家来・淵辺義博が殺して、

            鎌倉から逃げたため鎌倉は、一時、時行に支配された。

            尊氏が、京都から鎌倉に入って、時行を討つと、建武の新政に不満の武士は尊氏に従った。

            後醍醐天皇は、尊氏を討つために新田義貞を鎌倉に派遣する。


※暦応元年(1338年)…「室町幕府開く」…足利尊氏は後醍醐天皇が派遣した新田義貞に勝利し、

              征夷大将軍となる。

※貞和5年(1449年)…尊氏は、二男の基氏を鎌倉に派遣し、鎌倉府の長官・鎌倉公方かまくらくぼうとし、

              関東八カ国に甲斐、伊豆を合わせた東国十カ国を統治させた。

※貞治2・正平18年(1363年)…基氏は上杉憲顕うえすぎ のりあきら関東管領かんとうかんれい(鎌倉公方の補佐役)とした。

その後、上杉氏(犬懸家・山内家・扇谷家・宅間家)は代々関東管領を務めることになる。

京都と鎌倉に現在のようか「五山」の制度が出来たのは、基氏の子氏満うじみつが鎌倉公方となり、

   足利義満よしみつが将軍のころとされる。

※応永23年(1416年)…「上杉禅秀ぜんしゅうの乱」…関東管領であった上杉氏憲(禅秀ぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏に背く。

※永享10年(1438年)…「永享の乱」…足利持氏は京都の将軍足利義教よしのりに背くが敗れて、

               捕らえられて翌1439年、自害する。

※康正元年(1455年)…今川範忠、幕命により鎌倉に入る。

               足利成氏、下総しもつけ古河こがに敗走、→古河公方くこがぼうと呼ばれる。

               鎌倉は、山内上杉氏が支配していたが、対立する扇谷の上杉氏との争いが続いた。