「永安寺」は二階堂・紅葉ケ谷にある。 関東管領足利氏満が開基である。開山は曇芳和尚である。 「曇芳和尚」は、名前を「周応」と言い、夢想国師の法を受け継ぎ、建長寺の瑞林庵の始祖である。 足利氏満は応永五年(1398年)十一月四日(39歳)で亡くなり、その法号を永安寺 「壁山全公」と称した。 永安寺の寺号はこの法名に基づいている。 氏満の孫の持氏は時の将軍足利義教と不和となり、戦いに敗れ勢い窮まった末この寺で自害(42歳)しました。 時に永享十一年(1439年)二月十日のことであった。…『永享の乱』 この日、寺容は兵火にかかってその建物を焼失してしまった。此の地は実にその永安寺址である。 大正十五年三月 建 鎌 倉 町 青 年 会 |
室町時代の武将。第二代鎌倉御所。基氏の子。幼名 金王丸。 九歳で父の跡をつぎ鎌倉の主となる。管領 上杉憲顕がこれを補佐。 武蔵平一揆、新田義宗の乱を鎮める。 正平24年(1369年)元服、左馬頭、従五位下。 天授五年(1379年)、土岐頼康等が管領細川頼之を排斥しょうと画策、 将軍義満は鎌倉に援助を求めた。氏満はこの機に義満を攻め、将軍となる野心を もったが、上杉憲春の諫死にあって思い止まった。 天授六年(1380年)、小山義政が宇都宮基綱を殺したため、これを征伐、 その後も何回となく義政・その子犬若丸は兵を挙げたが、ついに 応永四年(1397年)これを自刀させた。 |
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永安寺に葬る。 法名は永安寺壁山道全と称した。 義堂周信に帰依する。 扇ガ谷海蔵寺は氏満の命により上杉氏定(開基)の創建、開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)。 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永ニ編)東京堂出版による |
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