「上杉朝宗」は足利氏満、満兼に仕え、出家して入道になり、 「禅助」と号した。 人は朝宗に対して「犬懸(いぬかけ)の管領」と呼んだ。 朝宗の子の「上杉氏憲」はあとを継いで、足利持氏の執事となり、入道して 「禅秀」と号した。 しかし後に持氏と不和となり、応永廿三年(1416年)、氏憲は持氏の祖父の満隆等とあい図って、 満仲(持仲の誤り)(持氏の弟)を奉じて挙兵《禅秀の乱》したが、戦いに敗北した。 氏憲は、翌年(1417年)の正月十日、足利満隆やその養嗣子持仲と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害して 果てた。 此の所は、その上杉朝宗とその子氏憲の邸宅があった所である。 昭和十年三月 鎌 倉 町 青 年 団 建 |
南北朝・室町前期の武将。関東管領。 幼名 幸若丸。 修理亮・中務少輔。釈迦堂または禅助と号す。 父 憲藤の死後(1338年)、兄の幸松丸(朝房)とともに家臣の石川入道覚道に養育された。 貞冶四・正平二十年(1365年)〜永和・天授二年(1376年)の間に兄朝房に代わっ て上総国の守護となり、ついで家督を譲られて犬懸上杉氏を継いだ。 応永二年(1395年)三月九日、関東管領に就任した。 同十二年九月十二日、職を辞した。また武蔵国守護を兼任する。 |
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同十六年七月に十二日、鎌倉公方・足利満兼の死に際し、剃髪して禅助と号す。 上総国長柄山胎蔵寺に隠亭退して、家督を子の氏憲に譲った。 応永二十一年八月二十五日没す。七十六歳。76歳。一説には81歳。 法名 徳泉寺道元禅助。 胎蔵寺の寺伝・文化財ならびに朝宗墓所について
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南北朝・室町前期の武将。関東管領。 右衛門佐。禅秀と号す。 父は上杉朝宗。 応永十六年(1409年)、犬懸上杉氏を継ぎ、同十八年二月九日、上杉(山内)憲定の後 を受けて関東管領となり、鎌倉公方足利持氏を補佐した。 この頃、犬懸・山内の両上杉の対立が激化し、しかも持氏が山内家の憲基を支持する ことに強い不満を抱いた。さらに同二十二年に氏憲の家人越幡六郎が持氏のために所領 を没収されたことに反発し同年五月、関東管領を辞した。 |
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翌二十三年十月二日、持氏に不満を抱く足利満隆らと謀って挙兵し、 持氏の屋敷を急襲して鎌倉を制圧した。いわゆる上杉禅秀の乱である。 しかし鎌倉を脱出して駿河に逃れた持氏が幕府の支援を受けて反撃すると 離反する将士が相次ぎ、翌年正月十日、満隆やその養嗣子持仲らとともに 鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害した。 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉・室町人名事典」(安田元久著)による |
鎌 倉 御 所 系 譜 | 犬 懸 上 杉 氏 系 譜 |