鎌倉での執権の立派な業績を語るときには、かねてより まず北条時頼、時宗があげられる。 このことは、この二人の執権を支えこの二人にお仕えした青砥左衛門尉藤綱の功績をあげねばならない。 藤綱の逸話は沢山あるが、次の逸話は世間でもよく知られている。 『藤綱が、ある夜、滑川を渡り過ぎる時のことである。誤って銭・十文を川に落としてしまった。 藤綱は、川に落とした銭を探し見出すまでに、水中を照らしすため五十文の松明を買い求めた。』 という一つの逸話がある。 此の地は、その藤綱が居住していた所の地であると言う。 大正十年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 団 |
生 没 年 不 詳 藤綱は上総(千葉県)の人。 藤満の子といい青砥三郎と称した。 11歳の時、出家、21歳で還俗する。 28歳になり、北條時頼に仕え、評定衆となる。 清廉潔白で善行の誉れ高き人物という。 「結城文書」の康永三年(1344年)3月21日付けの引付番表には 青砥左衛門尉の名前が見える。 数十ケ所の領主を知行し裕福であった 「結城文書」の康永三年(1344年)3月21日付けの 私生活は質素であったが、公儀には金銀を惜しむことなく、 また貧者には慈悲をもってあたった と云われている。 北條時頼に廻国を勧め、三浦義村の弟・律師良賢の謀叛の摘発 したことで知られる。 … 《『弘長記』等による》 … 『太平記』巻35には青砥左衛門尉の事績を記し、 訴訟が起きた時、権門にへつらうことなく公平な裁断を下し たこと、夜中、滑川に銭十文を落とした際、天下の財の費を おしみ、五十文を投じてこれを拾わせた、などの話を伝えて いるが、これらの事は正史にない。 |
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