扇谷上杉管領屋敷跡 (oogiya-uesugikanryo-yashiki-ato) の歴史

    ◆ 上杉重房が鎌倉に下向する以前・藤原高藤の存在。

  1. 藤原高藤(838〜900年)

  2. 高藤流藤原氏を北家勧修寺流と家ともいう。平安前期の官僚で代々宮中に仕えた。

    藤原冬嗣の孫で、娘に藤原胤子(892年没)がいる。胤子は勧修寺をたて高藤を祀った。

    藤原胤子・・光孝天皇の第七皇子源定省(後の第59・宇多天皇)と結婚、第60醍醐天皇の母。





    ◆ 上杉重房、宗尊親王に随行して鎌倉に下向し、鎌倉に定住する。

  1. 建長4年(1252年)

  2. 後嵯峨院の皇子・宗尊尊王(1242〜1274年)が初代の皇族将軍として鎌倉幕府第6代将軍となった

    時、介錯人となって随行し鎌倉に下向、そのまま鎌倉定住した。

    この時、左衛門かみに任ぜられ、同時に丹波国何鹿郡上杉荘を本領として与えられて藤原姓から

    上杉姓の祖とかる。




    ◆ 上杉顕定(1351〜1380年)、扇谷上杉の祖となる。

  1. 貞治年間頃(1360年代)

  2. 上杉顕定・・上杉朝定(丹波守護)の養子、実父は上杉藤成。兄弟に頼顕。

    顕定は貞治年間に鎌倉に下向して、鎌倉公方氏満に仕え、鎌倉扇谷の地に居住し、

    扇谷上杉の祖となる。

     扇谷家は、永享の乱(鎌倉公方・足利持氏と山内家の戦)で山内家に味方し、享徳3年(1453年)

     古河公方・足利成氏の享徳の乱でも山内家を支えた。

    扇谷家宰・太田動真・道灌父子は河越城・江戸城を築城し、勢力を拡大した。

    扇谷上杉家は山内上杉家と共二、両上杉とか両管領と云われた。

    扇谷上杉の六代目の定正(1446年〜1494年)室町幕府相模守護は扇ガ谷の管領屋敷(石碑の

    周辺のあたり)に住んだといわれている。




    ◆ 上杉定正(1446年〜1494年)の時代。

  1. 文明8年(1476年)長尾景春の乱

  2. 山内家の有力家臣・長尾景春が叛乱を起こし、定正・顕定は上野国に敗走する。河越城は守る。

  3. 文明14年(1482年)長尾景春没落

  4. 古河公方・正氏と和睦す、定正は山内家主導の和睦に不満あり、顕定と不仲になる。

  5. 文明16年(1486年)7月26日、太田道灌を暗殺

  6. 扇谷の勢力弱体を狙った顕定の策略に嵌った定正は太田道灌を粕屋館に招いて暗殺。

  7. 長享の乱年(1488年)

  8. 山内顕定、扇谷家を攻撃するが、定正、実蒔原・須賀谷原・高見原の戦いで勝利。

  9. 明応2年(1493年)

  10. 定正の手引きで、北條早雲が伊豆国に乱入し堀越公方・足利茶々丸を駆逐する。

  11. 明応3年(1494年)

  12. 扇谷家家臣・大森氏頼と三浦時高が死去。

    定正は北條早雲とともに武蔵国・高見原に出陣して顕定に対陣すねが、荒川を渡ろうとした際

    落馬して死去する。 墓所:神奈川県厚木市広沢七沢城址・徳雲寺

    定正の後は、甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが北條早雲とその子氏綱の侵攻に押され、

    扇谷家は徐々に所領を蚕食されていった。