内大臣 藤原高藤 十三代の子孫に 重房 という者があった。 宗尊親王に随行して鎌倉に来ました。 此のとき、丹波国(京都府) 上杉庄を拝領したところから、始めて上杉氏を名のった その曾孫の憲顕は、鎌倉管領の足利基氏の執事となった。 それ以来、上杉一族は関東に大きな勢力を持つようになった。 一族は数門に分かれた、 重房 から五代目にあたる上杉顕定という者が『扇ガ谷家』の祖となった。 六代目の上杉定正は、文明年間(1469〜1487年)に賢臣の太田道灌を起用して扇ガ谷上杉家の名を 高らしめた。 本家にあたる山ノ内上杉家と共に扇ガ谷上杉家は両管領と呼ばれるほどに繁栄した。 扇ガ谷上杉氏の邸宅址があった此の地である。 大正十一年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
|
坐 像 | 部 分 |
像は立鳥帽子を被り、糊の効いた狩衣・指貫をつけて右手に笏(現在亡失)を執る強装束姿である。 当時の公卿にとって狩衣・指貫は略装であつたが、武家においては礼装であった。 構造は、頭部は一木より彫成し、面部を割矧いで玉眼を嵌入した上で体部に差し込みとする。 ・・・もとは、最明寺(禅興寺)仏殿土地堂に安置されていた。・・・ 同種の作風を示す遺例としては、東京国立博物館源頼朝坐像・建長寺北條時頼坐像があるが、その中でも 本像はうねりのあねまなじりとやや厚めの唇に像主の特徴が顕著で、面部に若干の硬さがうかかわれる他の ニ躯の像よりも写実性が優れることから、造立は先行するものと考えられる。 像の制作年代は晩年または没後間もなくの十三世紀後半とみてよいだろう。 《出展;鎌倉国宝館図録第37集「鎌倉の肖像彫刻U武人・高僧」(解説執筆:内藤浩之氏による)》
|