扇谷上杉管領屋敷跡(oogiya-uesugikanryo-yashiki-ato)の石碑文の説明


☆ 扇谷上杉管領屋敷跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   内大臣 藤原高藤 十三代の子孫に 重房 という者があった。
  宗尊親王に随行して鎌倉に来ました。
  此のとき、丹波国(京都府) 上杉庄を拝領したところから、始めて上杉氏を名のった

   その曾孫の憲顕は、鎌倉管領の足利基氏の執事となった。
  それ以来、上杉一族は関東に大きな勢力を持つようになった。

  一族は数門に分かれた、 重房 から五代目にあたる上杉顕定という者が『扇ガ谷家』の祖となった。
  六代目の上杉定正は、文明年間(1469〜1487年)に賢臣の太田道灌を起用して扇ガ谷上杉家の名を
  高らしめた。

   本家にあたる山ノ内上杉家と共に扇ガ谷上杉家は両管領と呼ばれるほどに繁栄した。
   扇ガ谷上杉氏の邸宅址があった此の地である。

          大正十一年三月 建
                                     鎌 倉 町 青 年 団




扇ガ谷おうぎがよつ】の地名由来

 扇カ谷1〜4丁目・御成町おなり佐助さすけ1〜2丁目。 もと鎌倉郡扇ガ谷村。化粧坂けわいさかや亀ケ谷坂をへて鎌倉入りした
 附近一帯に位置し、北は山ノ内、東雪ノ下、南小町・大町、西長谷・常盤ときわ・梶原と接する。
  『吾妻鏡』に扇ガ谷の地名はなく、この地域の総称は亀谷(初見は治承4年(1180年)10月)で、扇ガ谷の名
 は鎌倉後期からみえる。本来の扇ケ谷は海蔵寺・華光院けこう・英勝寺附近をさした狭少な地名といわれる。
 室町時代、管領上杉定正(1494年没)がこの附近に住み、"扇谷殿"と称されてから亀ケ谷の名が
 すたれていく。

地名の由来は飯盛山の麓にある「扇の井」に因む等 諸説あるが谷が入り組んだ扇形の地形によるのであろう

《出展 ;「鎌倉の地名由来辞典」(三浦勝男編による)》

【上杉系図】

【上杉系図】は 出展;「中世鎌倉年表」(樋口州男・錦昭江監修) かまくら春秋社発行 による


木 造   上 杉 重 房 坐 像


 木 造 上 杉 重 房 坐 像  【重 要 文 化 財】   ( 鎌 倉 市 明 月 院 蔵 )
上杉重房坐像 上杉重房部分像
坐   像 部   分

  [ 木造 上杉重房坐像 について ]


    像は立鳥帽子を被り、糊の効いた狩衣・指貫をつけて右手に笏(現在亡失)を執る強装束姿である。
   当時の公卿にとって狩衣・指貫は略装であつたが、武家においては礼装であった。
   構造は、頭部は一木より彫成し、面部を割矧いで玉眼を嵌入した上で体部に差し込みとする。
        ・・・もとは、最明寺(禅興寺)仏殿土地堂に安置されていた。・・・
    同種の作風を示す遺例としては、東京国立博物館源頼朝坐像・建長寺北條時頼坐像があるが、その中でも
   本像はうねりのあねまなじりとやや厚めの唇に像主の特徴が顕著で、面部に若干の硬さがうかかわれる他の
   ニ躯の像よりも写実性が優れることから、造立は先行するものと考えられる。
   像の制作年代は晩年または没後間もなくの十三世紀後半とみてよいだろう。

《出展;鎌倉国宝館図録第37集「鎌倉の肖像彫刻U武人・高僧」(解説執筆:内藤浩之氏による)》