太田道灌邸旧跡 (英勝寺) の 歴 史

  1. 『 英勝寺開基 ・ 英 勝 院 』

  2. 英勝院尼は、太田道灌四代の息女で徳川家康に仕え、「おかつの方」いわれ、聡明にして

    温雅貞淑であった。

    道灌 ⇒ 資康 ⇒ 資高 ⇒ 康資 ⇒ お八(英勝院)

    天正19年(1591)お八・13歳の時、お梶と改名して江戸城に召され、徳川家康の側室となる。

    後に勝と改める。

    慶長12年(1607)市姫を産むが、慶長15年2月13日、4歳で天折した。

    家康公の命により、家康の子(第11子)・鶴千代君(頼房)の准母となる。

    家康公薨去後、落飾し、英勝院と号し、江戸城北の丸に入り鶴千代君(頼房卿)と住む。

    元和9年(1620年)秀忠は将軍職を家光に譲る。

    家光に願い、鎌倉扇ケ谷に地を賜り、英勝寺を創建した。

    英勝院尼は頼房卿の息女小良姫さらひめを七歳の時に「玉峯清因」と名づけ得度させ、

    開山第一祖とした。

    英勝院尼は、寛永15年(1638年)8月23日、 御年65歳で、江戸城 水戸邸で卒去する。

    その日、夜を徹して鎌倉に送られる。 翌日、寿福寺の後ろ山にて仮葬される。

    同年9月20日、葬儀を修し、由比ガ浜で荼毘に附し法会を執行した。

    法号 ; 『英勝院殿長誉清春大禅定尼』


  3. 『英勝寺 建立 』

  4. 英勝院尼は寛永11年(1634年)6月、先祖の菩提を弔い、自分の後生を願うために、

    鎌倉扇ケ谷(先祖太田道灌旧蹟の地)に浄刹の創建を家光将軍に願い出てゆるされた。


    仏殿の出来たのは寛永12年(1635年)11月、付属建物等が出来は、寛永13年の仲冬(11月)23日である。

    (山門、楼門、鐘楼が出来たのは、寛永20年8月か;山門の額「英勝寺」の文字は後水尾天皇の御宸筆である。)

    鐘楼;「寛永20年5月吉日、法印道春撰、冶工大河四郎左衛門吉忠」とあり、この年に出来たであろう。

    幕末から明治初年にかけて 三浦の 福本寺にあったのを、昭和32年に新しい鐘を鋳てかの寺に贈り、もとに戻る。

    総門;額「東光山」は、沢庵和尚の撰文で曼殊院良恕法親王の筆による、裏書に「寛永20年4月14日…」とある。


    開山住持は清因(頼房卿の息女小良姫さらひめ)とされる。


  5. 『歴代の住持 』

  6. 《英勝寺・歴代の住持系図》 をご覧下さい。

    開 山 玉 峯 清 因 尼

     英勝寺は寺領に三浦郡池子村に420石の朱印地並びに通称源氏山を賜っている。

     境内には、「阿仏尼の卵塔」・「智岸寺稲荷」などがある。

     玉峯清因は、90歳で入寂した。

    第二代 清 山 尼

    第三代 清 玉 尼

    第四代 清 薫 尼

    第五代 清 月 尼

    第六代 清 吟 尼

    第七代 正 姫 様

    第八代 清 瑞 尼

    明治2年、正姫様が退寺後について、まとまつた記録はない。

    隆晋尼・英勝寺の随従尼、明治20年3月31日、没 (宣流尼の後を継ぐ?)

    明治22年、須永章林尼 住職心得となつて入寺する。(68歳)⇒明治25年3月27日没

    無住職時代 3年間

    明治28年9月13日、松平清瑞尼が入寺する。大正8年9月13日遷化まで24年間住職した。

    清瑞尼の没後は再び無住となり、大仏の高徳院、長谷寺、安養院の三寺が管理する。

    大正12年、関東大震災にて、山門・倉庫等倒壊。

    大正14年、東京青山善光寺の八幡清観尼が、兼務住職となる。

    昭和15年5月30日〜昭和22年3月20日の間、小林観導尼が住職となる。

    昭和22年3月21日、牧野清本尼が、本寺の住職となる。 今日に至る。


  7. 『英勝寺の復興 』


  8. 昭和31年 7月1日、英勝寺文化財復興保存会の発会

    昭和36年 6月  、源氏山を鎌倉市に売却

    昭和36年12月  、本堂、唐門完成

    昭和36年7月〜37年、1日、祠堂鞘堂、宝庫、築地塀、書院完成

    昭和38年7月、庫裡屋根替。


  9. 『英勝寺の建物5棟が国指定重要文化財 』


  10. 平成25年年 5月17日、開催の文化庁文化審議会文化財文科会において、

    『仏殿・山門・鐘楼・祠堂・祠堂門』の5棟が国指定重要文化財となる。