太田道灌邸旧跡(oota-dookan-tei-kiuseki)の石碑文の説明


☆ 太田道灌邸旧跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   此の地は「道灌 太田持資」が江戸に築城して そこに移り住む 以前の邸宅のあった処である。
   太田道灌 は文武に優れた人物であった。

          『武蔵野は菅原の野と聞きしかど
                       かかる言葉の花もあるかな』


                       と、時の天皇のお褒めに与った人でもある。

   寛永十一年(1634年)、道灌の邸のあと今の「英勝院」が建てられた。
   この寺の創立者は、水戸藩 初代 徳川頼房 の養母であって、太田康資の嫡流の娘であった。
   そのために 英勝院は、晩年において 将軍 徳川家光 から特に此の地を拝領し、ここに住むように
   なったのである。

          孤鞍雨こあん あめをついて茅茨ぼうしたたく、
                        少女為しょうじょ ためおくる花一枝』


                       と言う詩の逸話は、道灌が若くこの地に住んでいたところにおった話である。

       大正十年三月 建之
                                        鎌 倉 町 青 年 会





【人物紹介】

太田道灌 (おおた どうかん)    1432〜1488(永享4〜文明18)


道灌は、源 頼政の孫広綱を祖とする清和源氏の流れをくむ室町中期の武将。


扇谷上杉氏の家宰。 資清の長子として英勝寺の建つ地にて誕生。 名は、資長。備中の守。

長録元年(1457年)に江戸城を創建。

文明5年(1473年)、扇谷上杉家の政真が死ぬと子の定正が相続、道灌の補佐を得て

家勢を増大した。

これを嫉んだ山内上杉顕定に中傷され、道灌は主君定正の手で謀殺された。


軍事的に猛け軍法師範と称された。

文学にも秀で、文明18年(1486年)の春、建長・円覚両寺の学僧らを招き、

隅田河に船を浮かべて詩歌の会を催している。

【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永二編)外参照による


【文武両道に優れた太田道灌】


 「山吹の一枝」
道灌、武蔵野に狩りに出た。帰途雨に降られる、雨具を借りようと、とある農家の門を叩く。
小女が山吹の一枝を差し出し、道灌を迎えた、道灌は怒り無言でその場を立ち去った。 …近臣にこの様を話す…、
その少女は「兼明親王」の古歌にならって、『貸すべきみのの一つさえない のを嘆いて実のならない山吹を差し出した』 と、
との意味が解からなかった 道灌 は己のなさった様を恥じ、これわ期に、一念発起、文の道に精進努力し、
一流の歌人になった と 言う。


 「有能・賢臣かため主人に殺される」
上杉家は、重房が宗尊親王に従って鎌倉に来て、丹羽国上杉荘を拝領して、上杉氏を名乗る。た
その曾孫の憲顕が貞治2年(1363年)、鎌倉公方・足利基氏の執事(関東管領)になって、関東に勢力を誇るようになる。
上杉氏(犬懸家・山内家・扇谷家・宅間家)は代々関東管領を務める。
なかでも、山内家と扇谷家が権勢をふるう、扇谷家か強力になったのは道灌(持資)の貢献によると云われている。
山内家と扇谷家は次第に対立するようになる。道灌は、武蔵・相模・上野・下総などで両家をよく助けたが、その手腕を
恐れた山内上杉顕定の讒言(定正の勢力をそぐには、道灌を退けるに如かずと考えた)により、
文明18年(1486年)7月、大山の麓の上杉館・粕屋の別業(伊勢原市上粕谷)に招かれ
入浴仲に主家扇谷上杉定正の家臣によって殺害された。  享年55歳、法名;「春苑道灌」。





『太田道灌の供養塔 』


 (1) 英勝寺裏から源氏山に向かうハイキングコースに太田道灌の首塚と言われる供養塔がある。

     供養塔は文政9年 (1826年)10月、英勝寺第6代住持・清吟尼により建てられた
《「首塚」・「供養塔」所在地 ; 神奈川県鎌倉市扇ケ谷1番地》

太田道灌の供養

建立の場所

英勝寺裏手山の寿福寺から上った源氏山の山中、山腹道に草木の中に傾いた石の囲いの中に墓塔は建っている。
    ← (平成21年4月19日 撮影)

正面に「大慈院殿霊廟」。

左側面に「太田道灌斎大居士」
と彫られている。



英勝寺は道灌の邸宅跡といわれている。

開基は道灌四代の孫・康資の娘・英勝院尼である。


源氏山は寛永19年(1642)徳川家光より寄進され、
昭和36年(1961)7月、鎌倉に売却される。




 (2) 伊勢原原市上粕屋の・幡龍山公所寺ぐぞじ(洞昌院)の入口に道灌の「胴塚」と呼ばれている墓がある。

《「胴塚」所在地 ; 神奈川県伊勢原市上粕屋1160番地》


  越生の龍穏寺の末寺で、道灌が再興した。 道灌はこの地で荼毘に付されたという。 (法名)『香月院殿春苑道灌庵主』

  『太田道灌墓・五輪塔、高三尺五寸許、傍ら古松二株一は囲一丈六尺、一は一丈あり、案ずるに石塔の様当時の物にあらず、

  後世建てし物と見ゆ』・・・《「新編相模風土記稿」による》・・・


   墓の脇にある歌碑
    " いそがずば ぬれざらましを 旅人の  後より晴るる 野路の村雨 "




 (3) 伊勢原原市糟屋の道灌橋から渋田川に沿って歩くと道灌「墓・首塚」がある。

   墓石の五輪塔は15世紀の物とのことです。

   脇に子爵・太田資美(掛川藩第7代藩主)による墳墓修理の碑文が刻まれた碑がある。

     墓域の縁の処に「記念 太田道灌公 450年祭 昭和11年7月26日 建立」の石碑がある。

《「墓・首塚」所在地 ; 神奈川県伊勢原市下糟屋362番地》





 (4) 東京都墨田区の平河山報恩寺境内に「道灌公供養塔」と「五輪塔」がある。


      (平河山報恩寺縁起)

     太田道灌は長禄2年(1458年)、江戸城築城するにふたり、当時平河が流れる平河村に「平河山本住院」を建立。

     後に「平河山報恩寺」となりました。寺号の「報恩寺」は、道灌の実子の日蓮宗信者太田資康の法号「報恩斎」に因みます。

《「報恩寺」所在地 ; 東京都墨田区太平1−26−16番地》




【太田道灌 山吹譚について】



(1) 【 愛 敬 四 山 の 漢 詩 】
 道 灌 とうかん 蓑 みのを 借 る の 題 だい

   (詩情)
    (道灌蓑を借りるの図に題す)
   「太田道灌はある日、従者を連れず独り馬に乗って狩に出かけ、俄雨にあいました。
    一軒の貧しいかやぶきの家に立ち寄って雨宿りをし、蓑を借りようとすると、
    一人の少女が出てきて、八重の山吹の花の一枝を差し出しました。
    少女は一言もしゃべらず、また花も何も語ってはくれない。
    道灌は、それが何のことか全くわからず、思いまどうのみであった。」
   
   (作者略伝)
       愛敬四山(1802〜1852年)  熊本の人。
      名は武元たけもと、通称 四郎次と呼ぶ。号は「四山」「白雲楼」「華奴かど」「蕉日しょうじつ」。
      著書に「鶏助集」「白雲楼」等の詩集がある。


(2) 山吹の里
   山吹の里 伝説の地

   埼玉県入間郡越生町・・・@「山吹の里歴史公園」

   東京都豊島区・・・・・A「山吹の里公園」・「山吹之里の碑」

   東京都新宿区・・・・・「久遠の像・道灌と少女の銅像」・「紅皿の碑」

   東京都荒川区・・・・・「山吹の塚」

   神奈川県横浜市・・・・「六浦の山吹の里」

   


 @ JR八高線・越生駅下車、徒歩5分、越辺川に架かる山吹大橋を渡った所に、「山吹の里歴史公園」はある。
 A 東京都豊島区の「山吹の里公園」にある豊島区教育委員会による解説板。