此の地は「道灌 太田持資」が江戸に築城して そこに移り住む 以前の邸宅のあった処である。 太田道灌 は文武に優れた人物であった。 『武蔵野は菅原の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな』 と、時の天皇のお褒めに与った人でもある。 寛永十一年(1634年)、道灌の邸のあと今の「英勝院」が建てられた。 この寺の創立者は、水戸藩 初代 徳川頼房 の養母であって、太田康資の嫡流の娘であった。 そのために 英勝院は、晩年において 将軍 徳川家光 から特に此の地を拝領し、ここに住むように なったのである。 『孤鞍雨をついて茅茨を叩く、 少女為に遣る花一枝』 と言う詩の逸話は、道灌が若くこの地に住んでいたところにおった話である。 大正十年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 会 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉事典」(白井永二編)外参照による |
![]() ![]() ![]() ![]() 《「首塚」・「供養塔」所在地 ; 神奈川県鎌倉市扇ケ谷1番地》 ![]() と彫られている。 |
《「胴塚」所在地 ; 神奈川県伊勢原市上粕屋1160番地》 |
《「墓・首塚」所在地 ; 神奈川県伊勢原市下糟屋362番地》 |
《「報恩寺」所在地 ; 東京都墨田区太平1−26−16番地》
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(詩情) (道灌蓑を借りるの図に題す) 「太田道灌はある日、従者を連れず独り馬に乗って狩に出かけ、俄雨にあいました。 一軒の貧しいかやぶきの家に立ち寄って雨宿りをし、蓑を借りようとすると、 一人の少女が出てきて、八重の山吹の花の一枝を差し出しました。 少女は一言もしゃべらず、また花も何も語ってはくれない。 道灌は、それが何のことか全くわからず、思いまどうのみであった。」 (作者略伝) 愛敬四山(1802〜1852年) 熊本の人。 名は武元、通称 四郎次と呼ぶ。号は「四山」「白雲楼」「華奴」「蕉日」。 著書に「鶏助集」「白雲楼」等の詩集がある。 |
@ JR八高線・越生駅下車、徒歩5分、越辺川に架かる山吹大橋を渡った所に、「山吹の里歴史公園」はある。 | |
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A 東京都豊島区の「山吹の里公園」にある豊島区教育委員会による解説板。 | |
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