『吾妻鏡』における 相馬次郎師常 (sooma-jirou-morotsume) の記述


相馬師常の人物像を『吾妻鏡』の記述を中心に素描してみます。


[0]師常、父常胤

  父・千葉常胤は元永元年(1118年)5月24日、千葉常重の長男として生まれた。
  父・千葉常胤の母は常陸大據家の政幹の娘と伝えられる。
  下総権介・千葉介と称す。
  常胤は父常重から「相馬御厨」を譲与される。
  「相馬御厨」は 源 義朝の乱入もあり、平氏政権化では、佐竹義宗に奪われた。

[T]師常、父常胤と頼朝の挙兵に参陣

 
治承4年(1180年)9月、源 頼朝が石橋山で破れ、海路、安房国に逃れた際、父常胤と共に兄弟そろつて

 
逸早く参陣した。


『吾妻鏡』

《 治承4年(1180年)9月17日 丙寅 》 の条

 (上総かずさ)広常が参るのを待たず、(頼朝は)下総しもうさ国に向かわれた。

 千葉介広胤は、子息太郎胤正・次郎師常(相馬そうまと号した)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・

 五郎胤通(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等をともない、

 下総の国府に参り合流した。

 従う軍勢は三百余騎に及んだ。             ・・・以下省略・・・





[U]師常、父常胤と頼朝の佐竹義秀征伐に参加

治承4年(1180年)11月、源 頼朝初めて常陸国の佐竹義秀征伐を行い、常胤、師常はこれに従って、
再び、千葉常胤は「相馬御厨」の支配権を確保し、師常がこれを相続した。

[V]頼家の「御七夜之儀」に父・常胤と儀式に参加

◇寿永元年8月12日 条 頼朝の嫡子 頼家が誕生。 

※頼家の「御七夜之儀」に父・常胤がその奉行を勤め、師常は母(畠山重忠の叔母)・は北條政子の陪膳をつとめる。
 師常(相馬一族の祖)は兄胤正(千葉宗家の祖)と共に甲冑を担ぎ、儀式に加わった。
 三男・武石三郎胤盛(武石一族の祖)と四男・多部田四郎胤信(大須賀氏の祖)は鞍付馬を引き、
 五男・国分五郎胤通(国分一族の祖)と六男・千葉六郎大夫胤頼(東一族の祖)は剣を奉じた。

『吾妻鏡』

《 寿永元年(1182年)8月18日 丙辰 》 の条

 (頼家の)七夜しちやの儀があった。

 千葉介常胤が取り仕切った。常胤は子息六人を伴い、侍所さむらいところの上に着した。

 父子で水干袴すいかんばかまを着、秩父大夫重弘の娘で胤正の母を(頼家の)御前の陪膳ばいぜんとした。

 また進物があった。嫡男胤正・次男師常が御よろいを担ぎ、三男胤盛・四男胤信がくらつきの御馬を引き、

 五男胤通が御弓箭ゆみやを持ち、六男胤頼が御剣を持ち、それぞれ庭に居並んだ。

 兄弟は皆容貌のすぐれた勇者である。

 武衛ぶえい(源 頼朝)は特に感心され、人々もまた壮観であるとした。


《 寿永元年(1182年)8月20日 戌午 》 の条

 若公(源頼家)九夜くやの儀があった。

 外祖(北條時政)が取り仕切った。




   庭に列した千葉六兄弟を見た 頼朝は「殊にこれを感ぜしめ給」い、諸人も「壮観」と賞した。

[W]平家追討・奥州征伐に参加

寿永3年(1184年)頼朝は木曽義仲を倒し、宿敵平家と対峙することになつた。
2月師常は父常胤・兄弟と共に頼朝の弟・蒲冠者 源 範頼に従って平家の軍勢を摂津国一の谷で攻撃する。

『吾妻鏡』元暦元年正月29日 条 (1184年)
『己未。関東の両将(源範頼・源義経)は平氏を討伐するため、軍平を率い西国に赴いた。
軍勢は全て今日京を出発したという。』
『吾妻鏡』元暦元年2月5日 条 (1185年)
『甲子。酉の刻、源氏の両将(源範頼・源義経)は摂津国に到着した。・・・大手の大将軍は蒲冠者範頼である。』
範頼に従う人々は・・・
畠山次郎重忠、父千葉介常胤、相馬次郎師常と共に弟・国分五郎胤通・東六郎胤頼 等々の五万六千余騎である。
搦手の大将軍は源九郎義経で、田代冠者信綱、土肥次郎実平等々二万余騎である。

[X]壇ノ浦の戦いに戦勝し鎌倉に帰還

元暦2年(1185年)3月24日、長門国 壇ノ浦での平家一門との海上戦(壇ノ浦の戦い)で平家一門が滅びると
千葉一族は鎌倉へ帰還した。

[Y]長勝寿院の供養に参加

文治元年(1185年)10月24日、長勝寿院の供養の際に、奉納する神馬を曳いた。


  『吾妻鏡』文治元年10月24日 条 (1185年)
  『癸酉。天は晴れ、風は静かだつた。今日長勝寿院と号する南御堂の供養が行われた。・・・
・ ・・巳の刻に頼朝が御束帯姿でお出ましになつた。御徒歩であった。
行列 まず随兵十四人。 (最初に)畠山次郎重忠、(続いて)千葉太郎胤正(の名前が見える)・・
頼朝の御後は五位六位の者が32人。布衣で下括の装束であった。(この中に)千葉介常胤(の名前がある)
・ ・・
馬三十頭〔武者所(牧)宗親が北條殿(時政)の御代官として奉行した〕この内十頭分は鞍を置いた
〔御家人らがこの馬を引いた〕・・・
一番馬  千葉介常胤   足立右馬充遠元
九番馬  千葉二郎師常  印東四郎(房総平氏一族) (の名前がみえる。) 』

[Z]師常、父常胤と大般若経供養の大法会に参加

文治4年(1188年)3月15日
頼朝は鶴岡八幡宮の道場において梶原景時主催の大般若経供養の大法会を催し、
師常も父弟と共に参加している。

『吾妻鏡』文治4年3月15日 条 (1188年)
『・・・(頼朝の)お出ましの行列は以下の通り。 先陣の随兵八人  (この八人の中に)  千葉次郎師胤(師常)(の名前が見える)
後陣の随兵八人  (この八人の中に弟の)千葉大夫胤頼(の名前が見える)
道中の随兵30人[おのおのの郎党3人を従える]  (この八人の中に)千葉五郎(胤通) (の名前が見える)
 到着後、供養の儀式があった。』

[[]鶴岡八幡宮の塔建立に際、弟と共に布施の馬を引く。

文治5年(1189年)6月9日    鶴岡八幡宮の塔建立に際し、供養の儀式が行われ、師常は弟胤信と共に布施の馬を引いて入る。
  
『吾妻鏡』文治5年6月9日 条 (1189年)
『丁酉。(鶴岡八幡宮寺の)御塔の供養があった。
導師は法橋勧性、呪願は鶴岡若宮別当の法眼円暁が勤めた。・・・
お出ましの儀は以下の通り。・・・次に(頼朝の)御後に列を組む人々 (のなかに)
千葉介常胤、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠(の名前が見える)・・・
次に御馬。引き手は以下の通りである。
一の御馬 [葦毛、仙洞からの御馬] 畠山次郎重忠  小山田四郎重朝
四の御馬 [黒]          千葉次郎師胤  同四郎胤    ・・・』

[\]師常、父常胤と藤原氏及び源 義経 討伐に参加

文治5年(1189年)8月12日
   奥州平泉の藤原氏及び源 義経 討伐に父・兄弟6人共従軍して、この日、多賀の国府に到着した。
   
   『吾妻鏡』文治5年8月12日 条 (1189年)
   『・・・(頼朝は)夕方に多賀の国府に到着された。
    また東海道の大将軍である千葉介常種・八田右衛門尉知家らも参会した。
    千葉太郎胤正・同次郎師常・同三郎胤盛・同四郎胤信・同五郎胤通・同六郎大夫胤頼・同小次郎成胤
    同平次常秀・八田太郎朝重・多気太郎・鹿島六郎・真壁六郎らは、常胤・知家とともにそれぞれ
    逢隈湊を渡って参上したという。』

     【千葉介常胤の一行は、東北へ攻め上った。海道筋を領する 岩城則道 を破って岩城城を占領し、
    多賀城で頼朝と合流したのち平泉に攻め込み、泰衡の部将で剛勇の誉れ高い 由利宗平 をからめ
    取る功績を挙げる。
    戦後、頼朝は千葉一族の軍功を賞し、常胤に 奥州五郡を分かちあたえた。
    (五郡の総てが常胤に与えられたわけではなく、五郡内の多くの所領が与えられた意味)
    常胤はこの所領を息子達に分配し、師常には 行方郡 が与えられた。
    ここを拠点に鎌倉時代末から奥州相馬氏が勢力を広げていくことになる。

    平泉平定ののち、奥州御家人の沙汰など警察・裁判権を有したと言われている。
    「奥州惣奉行職」に葛西三郎清重を、内政職である「陸奥国留守職」に伊澤左近将監家景を
    任じて奥州の沙汰をさせていたが、奥州平定の翌年、泰衡の遺臣であつた 大河兼任が
    突如叛乱を起こした。葛西三郎清重は拠点の平泉を出て大河軍を迎え討ったが、大河兼任は
    すでに藤原氏の遺臣たちを?合した大軍を率いており、無勢の清重は鎌倉の頼朝に救援を求
    める使者を発し、平泉を捨てて南へ逃れた。
    頼朝は清重の急使から救援を訴える書状を受け取るや、御家人を招集。奥州再派遣の軍を編成した。
    このとき、千葉介常胤は再び海道筋の大将軍に任ぜられ、師常はその先鋒を命じられたが、
    この出兵に際して常胤の活躍はなく、かわつて師常の兄・千葉新介胤正の活躍が目立ち、
    葛西三郎清重を自らの指揮下に加えていること、頼朝が「胤正以下」に書状を送っているように、
    胤正が老齢の常胤の代将として討伐軍の大将を務めていた筋がうかがわれる。
    この討伐軍に大河兼任は破れ、山中に隠れていたところを木こりに殺された。

[]]頼朝は御上洛

建久元年(1190年)10月2日
   頼朝は御上洛の先陣に畠山次郎忠重を呼んで命じた。
   建久元年(1190年)10月3日
   頼朝は鎌倉を出発して京都に向かった。途中、(25日)尾張国知多半島の野間に立寄り、
故左典厩(父義朝の墓)の廟堂(野間大坊御堂寺)に詣りになった。
『この墳墓が茨に覆われ葛や蔦が払われていないだろうかと、日頃気に掛けていたところ、
仏閣に扉が付けられ、厳かで立派に飾られている様子が目に映り、僧衆が座を構えて
経文を転読する声が聞こえてきた。・・・
古塚がしっかりと守られている様子にいっそう感心された。数十人ほどの高僧を招いて、
二十五三味の勤行を修された。僧一人あたり綿衣二領と瀑布十端を施されたという。』
  
   『吾妻鏡』建久元年11月7日 条 (1190年)
   『丁巳。雨が降った。午の一刻に晴れた。その夜、風が激しく吹いた。
    二品(源 頼朝)が入京された。法王(後白河)は内々に御車で(行列を)御覧になった。
    見物の車がたくさん(加茂川の)河原に並び立った。
    申の刻に先陣が都に入った。(行列は)三条大路の末を西に行き、河原を南へ行き、
    六波羅に到着された。その行列は次の通り。
    まず献上の金をおさめた唐櫃一台。
    次に先陣
    畠山次郎重忠[黒糸威の甲を着て、家子一人・郎党十人を引き連れていた]
    (この列の) 五十九番 千葉新介(胤正)
    後陣
    千葉介(常胤)[子息・親類らをもって随兵とした]
    灯ともし頃に、(頼朝は)故池大納言(平)頼盛卿の旧跡で、最近建てられた六波羅の新御邸に
    到着した。・・・』
    
    建久元年(1190年)10月11日
    新大納言家(源 頼朝)が六条若宮ならびに石清水八幡宮に参詣された。
    その行列に、千葉次郎師常は千葉新介胤正、千葉介常胤とともに参加している。

[]T]師常、正月のおう飯に御行騰・沓を進上

建久2年(1191年)正月1日
   千葉介常胤が源 頼朝におう飯(食膳を設けて饗応し、君臣が食事を共にすることによって主従関係
   を緊密にする。)を献じた。
   師常は御行騰・沓を進上した。
   『吾妻鏡』建久2年正月1日 条 (1191年)
   『庚戌。千葉介常胤おう飯を献上した。その有り様は特に整っていた。
    これは(頼朝が)昇進されたためであるという。午の刻に前右大将家(源 頼朝)が(御所の)南面に
    お出ましになつた。前少将(平)時家朝臣が御簾を上げ、先ず進物があった。
    御剣は千葉介常胤、御弓矢は新介(千葉)胤正、御行騰・沓は二郎(相馬)師常、砂金は三郎(武石)
胤盛、櫃に納めた鷹の羽は六郎大夫(東)胤頼が進めた。
 御馬
一 千葉四郎胤信  平次兵衛尉(千葉)常秀
ニ ・・・
三 千葉五郎胤道 ・・・  』
  (2日には三浦介義澄等が、3日には小山右衛門尉朝政等が、5日には宇都宮左衛門尉(朝綱)等が
   おう飯を献上した。)

建久2年(1191年)正月11日 前右大将家(源 頼朝)が鶴岡若宮に参詣された。頼朝は神馬三頭を奉納されたが、
一頭を千葉二郎(相馬)師常が引いている。

『吾妻鏡』建久4年正月1日 条 (1193年) 『己巳。将軍家(源 頼朝)が鶴岡八幡宮に参られた。お帰りの後?飯が行われ、
千葉介常胤が差配した。・・・
千葉大夫胤頼が沙金を、千葉介常胤が鷹の羽を運んだ。次に御馬五頭を引き進めた。
常胤の息子三人と孫二人が馬を引いた。すなわち師常・胤信・胤道・胤秀らである。
また今日、人々の座の序列を定められた。御自筆で書かれた定めを下されたという。』

[]U]師常、永福寺の薬師堂の供養に参加

建久4年(1193年)11月27日
鎌倉永福寺の薬師堂の供養が行われ、頼朝の随兵として師常が従っている。

『吾妻鏡』建久4年11月27日 条 (1193年)
『庚寅。永福寺薬師堂の供養が行われた。将軍家(源 頼朝)が寺内に渡られた。南門の外で
列を整えた。千葉小太郎A胤が(頼朝の)御剣を持ち、愛甲三郎季隆が御調度を懸けたという。
先陣随兵
   畠山二郎重忠  ・・・
後陣隋兵随兵
   ・・・ 相馬次郎師常・・・  』

[]V]師常、娘大姫の病気平癒祈念の日向薬師に参詣に参加

建久5年(1194年)8月8日  源 頼朝は娘大姫の病気平癒祈念のため、相模国伊勢原の日向薬師に参詣している。
 師常は兄弟と共にこの随兵に参加している。

『吾妻鏡』建久5年8月8日 条 (1194年)
 『丙申。今朝寅の刻に将軍家(源 頼朝)が相模国の日向山に参られた。・・・
 (頼朝は)御騎馬で水干を召されたという。
 先陣の随兵
   畠山次郎重忠 ・・・
・ ・・
   御後[水干を着た]
     ・・・千葉新介胤正  同六郎大夫胤頼・・・
   後陣随兵
     ・・・相馬次郎師常 ・・・   』

[]W]師常、頼朝の東大寺の供養の髄兵を勤める

建久6年(1195年)2月14日
  『庚午。巳の刻に将軍家(源 頼朝)が鎌倉から上洛された。御台所(政子)や男女
   のお子様たちも一緒に出発された。これは南都の東大寺の供養がおこなわれるので、
   御結縁のためである。 畠山二郎重忠が前陣を勤めたという。』
  
  『吾妻鏡』建久6年3月10日 条 (1195年)
   『乙未。将軍家(源 頼朝)は東大寺供養に加わるため、南都の東南院に到着された。
    石清水(八幡宮)から直接下られたという。     供奉人の行列は以下の通り。
    先陣
      畠山二郎(重忠)
      和田左衛門尉(義盛)[それそれ並ばなかった]
      次に御随兵[三騎が並んだ・・・]
・・・
臼井六郎(常安) 印東四郎  天羽次郎(直常) (房総平氏一族)
  千葉二郎(師常) 同六郎大夫(胤頼) ・・・
将軍(頼朝)[御車]
・・・
次に御随兵[三騎ずつ並んだ。家子・郎党については先陣と同じである]
  千葉四郎(胤信) 同五郎(胤通)
    後陣
      梶原平三(景時)
      千葉新介(胤正)  [それそれ並ばなかった。ともなう郎従は数百騎であった] 』
    建久6年(1195年)3月11日
    『丙申。将軍家(源 頼朝)が馬千頭を東大寺に施入された。(和田)義盛・(梶原)景時・
     (義勝房)A尋・(一品房)昌寛らが奉行した。
     全ての御奉加は米一万石・黄金一千両・上絹一千疋という。 』

  建久6年3月 日 条 (1195年)
    頼朝の信濃国善光寺参詣に師常は供奉している。

 『吾妻鏡』建久6年3月12日 条 (1195年)
    『丁酉。朝、雨が降った。(その後)晴れたが、午の刻以後、雨頻りに降った。また地震
     もあった。今日は東大寺の供養である。雨の神・風の神の降臨や天地の神々の出現の
     めでたいしるし明らかである。・・・
数万騎の勇壮な武士を引き連れて寺の四面周辺を警固した。
     日の出の後に将軍家(源 頼朝)が参堂された。・・・
     随兵は数万騎になるが、皆ふらかしめ辻々や寺の内外を警固していた。・・・
     先陣の随兵
・・・ 畠山二郎重忠 ・・・ 千葉新介胤正 ・・・
 後陣の随兵
    ・・・ 千葉二郎師常 ・・・    』

[]X]師常、天王寺参詣の髄兵を勤める

建久6年(1195年)5月20日
   天王寺参詣の先陣随兵として従弟の畠山次郎重忠らとともに供奉した。
   『吾妻鏡』建久6年5月20日 条 (1195年)
    『甲辰。曇り。常に小雨が降っていた。(頼朝は)卯の刻に天王寺に参られた。・・・
     日のあるうち渡部津に到着された。ここから乗車され、御台所(政子)の御車と軒を
     連ねた。女房の出車などもあった。それぞれ行列を整えたが、随兵以下、供奉の人々
     はみな騎馬であったという。
    先陣の随兵
       畠山二郎重忠  千葉二郎師常 ・・・
    後陣の随兵
       千葉新介胤正 ・・・     』

[]Y]師常、伊勢神宮に准白布を納入

建久10年3月24日  (1199年)
    師常は「相馬御厨」の地主、地頭として伊勢神宮に四丈准白布六百四十反を納入している。

    『相馬御厨上分送状写』建久10年(1199)3月24日 

[]Z]師常、出家

出家して法然上人の弟子となる。
  建仁元年(1201年)3月24日
  師常の父・千葉介常胤が崩御した。
      この頃、師常は出家し、法然上人の弟子となったと思われる。

[][]師常、嫡子の義胤に家督を譲る

嫡子の義胤に家督を譲る
元久2年正月1日  (1205年)
    新年の儀で、嫡子の「相馬五郎義胤」に家督を譲つたと思われる。
    『吾妻鏡』元久2年6月22日 条 に「相馬五郎義胤」の名前が見える。
⇒(畠山六郎重保が三浦平六兵衛尉義村の命をうけた佐久満太郎(家盛)らに誅殺され、
『畠山重忠が参上するとり風聞があったので、道中で誅殺せよとの沙汰があり、
相州(北條義時)以下が出陣され、』・・『御所の四面を警固させた』・・
    『大手の大将軍は義時である。先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺平次兵衛尉常秀・
     大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤であった。・・・』)
   
  []\]相馬師常の死

相馬師常、元久2年 (1205年) 11月15日、年六十七歳で卒す。

《 元久2年 (1205年) 11月15日 丁酉 》 の条

  相馬の次郎師常(年六十七)卒す。

  正座して合掌し全く動揺することなく、決定往生は疑いない。

  この者は念仏の行者であった。

  結縁と称して僧侶も俗人もこぞつて集り彼を拝んだ。


      ※1.「決定往生」・・現世において、すでに往生が確かに決定すること。
       2.[結縁]  ・・作善により成仏への縁を結ぶこと。