仮粧坂 (kehaisaka-kiridooshi)の石碑文の説明


☆ 仮粧坂の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

    「仮粧坂」は 「気生坂」または「形勢坂」とも書き表します。
  この名称は、源平合戦の時代において、平家の大将を討ち取り、その首を化粧して首実検にそなえた
  ことから起こったと言う。

   また一説には、その昔此の坂の麓に花柳界があったことから此の名前が付けられたと言い伝えられている。
   「東鑑」(吾妻鏡)にこの名はみあたらない。

   此の坂は、いわゆる鎌倉七口の一つであり、鎌倉攻防の重要な道路である。
  元弘三年(1333年)五月、新田義貞軍が鎌倉に攻め入った時以来、たびたび戦いの行われた処である。

          昭和十五年三月 建

                                  鎌 倉 町 青 年 団



 【坂の名前について】
 ⇒※ …… 気 和 飛 坂 ……

     【吾妻鏡】建長三年(1251年)12月3日の条


 ⇒※ …… 毛 和 井 ……

     【佐藤文書】観応三年(1352年)佐藤元清軍忠状


 ⇒※ …… 糀 坂ケハイサカ……
     【太平記】巻第二、俊基被誅事#助光事


 ⇒※ …… 化 粧 坂……

     【曽我物語】巻五、五郎女に情かけし事


 ⇒※ …… 気 生 坂 ……

     【鎌倉大草紙】応永二十三年(1416年)10月 禅秀の乱


 ⇒※ …… 化 は ひ 坂 ……

     【廻国雑記】文明十八年(1486年) 初冬


  俗説では、「仮粧」は「化粧」・「形勢」とも書かれ、名の由来は、この石碑のように、

  「討取った平家の武将の首を化粧し実検した所だ」とか、この辺りに「娼家があった」とか、

  あるいは、木生坂こはえさかの意味とか「険しい坂」がなまったものだろうと言われている。