「仮粧坂」は 「気生坂」または「形勢坂」とも書き表します。 この名称は、源平合戦の時代において、平家の大将を討ち取り、その首を化粧して首実検にそなえた ことから起こったと言う。 また一説には、その昔此の坂の麓に花柳界があったことから此の名前が付けられたと言い伝えられている。 「東鑑」(吾妻鏡)にこの名はみあたらない。 此の坂は、いわゆる鎌倉七口の一つであり、鎌倉攻防の重要な道路である。 元弘三年(1333年)五月、新田義貞軍が鎌倉に攻め入った時以来、たびたび戦いの行われた処である。 昭和十五年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |