『吾妻鏡』 における  亀ケ谷等に関する の記述


【T】亀ケ谷等に関する 『 吾 妻 鏡 』  に お け る 記 述 ・・・


  (1)  「左典厩(義朝)之亀谷御旧蹟(現寿福寺)」の記載


 《治承4年(1180年)10月7日 丙戌 》 の条 

まづ鶴岡八幡宮を遥拝したてまつりたまふ。


次に故左典厩(義朝)の亀谷かめがやつの御舊跡に監臨したまふ。

すなわち當所を點じて御亭を建てらるべきの由、その沙汰ありといへども、地形廣きにあらず。

また岡崎平四郎義実、かの没後をとぶらひたてまつらんがために、一の梵宇ぼんうを建つ。

よってその儀をとどめらると云々。


《 文  説 》

治承4年(1180年)10月7日  (丙戌ひのえいぬ)
まづ鶴岡八幡宮を遥拝ようはいされた。

その後 左典厩さてんきゅう(源 義朝)の御旧跡である亀谷かめがやつ (現在の扇谷地域) に行かれた。

その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、

そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後をとむらうために寺院を建ててたため、

お止めになったという。




  (2)  頼朝は「亀谷堂」にて亡母供養するの記載


 《和養元年(1181年)3月1日 丁丑 》 の条 

今日武衛、御母儀の御忌月たるにより、土屋次郎義清の亀谷堂かめがやつどうにおいて佛事を修せらる。


導師は筥根山別当 行實、・・・以下省略




《 文  説 》

和養元年(1181年)3月1日 (丁丑ひのとうし)
今日、武衛(源 頼朝)は御母(熱田大宮司範季の女の)御忌月だったので、土屋次郎義清の亀谷堂かめがやつどうにおいて

佛事をを執り行われた。

導師は箱根山別当 行實、・・・以下省略




  (3)  頼朝のの娘乙姫を「亀谷堂傍」に葬るの記載


 《正治元年(1199年)6月30日 庚寅 》 の条 

陰る。午の尅、姫君・三幡。遷化す。 御年十四。


尼御台所の御嘆息、諸人の傷磋、これを記すに遑あらず。


乳母の夫 掃部頭親能、出家を遂ぐ。定豪法橋戒師たり。


今夜戌の尅、姫君を親能の亀谷堂かめがやつどうの傍らに葬りたてまつるなり。


・・以下省略



《 文  説 》

正治元年(1199年)6月30日 (庚寅かのえのとら) 曇り。


午の刻に姫君三幡が死去した。御年14歳。

尼御台所(政子)の嘆き、諸人の悲嘆は記しきれない。

乳母夫である 掃部頭(藤原)親能が出家を遂げた。定豪法橋が戒師となった。

今夜戌の刻に姫君を親能の亀谷堂かめがやつどうの傍らに葬った。

・・以下省略




  (4)  政子、「亀谷地」を栄西に寄進し 寿福寺を創建の記載


 《正治2年閏(1200年)2月13日 戊戌 》 の条 

亀谷の地を葉上房律師榮西・後に僧正に昇る、に寄附せられ、清淨結界の地たるべき由、仰せ下さる。


午の尅、結衆等その地に行道す。


施主(政子)監臨したまふ。所右衛門尉朝光、御興に供奉す。


義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。


未の尅、堂舎・寿福寺なり。営作の事始なり。善信・行光等これを奉行す。



《 文  説 》

正治2年閏(1200年)2月13日 (戊戌つちのえいぬ)。晴れ。


亀谷の地を葉上房律師榮西・後に僧正に昇る、に寄せ、清淨結界の地にせよと(政子が)命じられた。

午の刻に結衆がその地を行道し、

施主(政子)が現地に臨んで監督された。所右衛門尉(藤原)朝光が政子の御興に供奉した。

(土屋)義清が仮屋を構えて、珍味の膳を用意したと云う。

未の刻に堂舎(寿福寺である)営作の事始が行われた。善信(三善康信)・(二階堂)行光が奉行した。<




  (5)  「武蔵大路の山峰」・・・若宮大路の東に御所を建てるにあたって…の記載


 《嘉禎2年(1236年)3月14日 辛未 》 の条 

若宮大路の東に御所を建てらるべきによって…(中省略)…方向を糾すべき由、駿河(義村)前司に仰せらる。


よって陰陽師を武蔵大路の山峰に相伴ひ、これを糾さしめて帰参す。…(以下省略)




《 文  説 》

ここに云う「武蔵大路の山峰」は、「源氏山」をさすものであろう。