北条執権邸旧跡 (houzyou-shituken-tei-kiuseki) の 石碑文の説明


  ☆ 北条執権邸旧跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

     昔 此の地は、北条氏の小町亭という邸宅があった処である。
    執権 北条義時 以後 歴代の執権は概ねこの邸宅に住んでいた。

    かの相模入道北条高時が、朝に夕に宴席を催し、時には田楽法師に対して、居並ぶ北条一族や
    名ある家柄の者達と共に、競いあって 直垂や大口はかま を脱ぎ、ご褒美に差し出した。
    そのご褒美の引き出物は山をなすほどであった。 この話は、此処の亭であったとのことである。

     元弘三年(1333年)、新田義貞 が鎌倉に攻め入った際、この亭は灰尽にきした。

    現在の宝戒寺は、建武二年(1335年)足利尊氏が 北条高時一族の怨魂を弔うために、
    北条氏の菩提寺であった東勝寺をこの北条氏所縁の地の跡に再興して、寺号を改めて

      『宝戒寺』としたのである。

          大正七年三月

                                       鎌 倉 町 青 年 会


 

 北条氏の小町亭
鶴岡八幡宮正面、二の鳥居前を東西に走る「横大路」を東に進んだ突き当りに、現在は「宝戒寺」が建立している。
北条氏の菩提寺であった東勝寺を再興した寺院で「萩の寺」として親しまれています。
二代執権 北条義時以後、源 実朝公亡き後の幕府を補佐した泰時、北条氏の執権政治を確立した時頼、元寇の難
を果敢に対処した時宗などはおおむね此処に居住しました。

 三代執権 北条泰時 ・・   この亭に係る逸話  ・・  《「沙石集」より》
将軍・源 実朝がある日『人の邸には 内部を隠すために塀があるのに、泰時の邸は中が見える。どういうことだ』
といいました。 つまりこの小町亭には塀がなかったのでしょう。
家臣が「塀を造りましょう」と進言したが、 泰時は『国々の人夫を使うことは気がとがめ、用心するといっても
運が尽きれば其れまでのことである。』 と断ったと云われている。 鎌倉武士の質実な精神を表した逸話である。




 北条隆時と田楽・闘犬
この碑に云う様に、高時は田楽や闘犬に日々うつつを抜かした愚か者であったという烙印が押されていが…。
高時の父 九代執権・貞時が没したのは、高時はまだ9歳の時であった。
その5年後に、高時は年端もいかない14歳で14代執権についた。
政治の実権は、物事の判断もつかない高時を補佐すると言う名目で長崎高資なかさきたかすけらの御内人みうちにんに握られていた。
幼少の高時が、政治を離れ遊興にふけっていたのも致し方なかったことだろう。