青砥藤綱旧跡 (aoto-fugituna-kiuseki)の石碑文の説明


☆ 青砥藤綱邸旧跡社の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


『 太 平 記 』の書によると、

青砥左衛門尉藤綱は、北条時頼(八代執権)と北條時宗(九代執権)の二代の執権にお仕えし、

引付衆の役につらなった人物であると云われている。

(藤綱の次の逸話は世間でもよく知られている。)


『藤綱が、ある夜、出仕の祭、滑川を渡り過ぎる時のことである。誤って銭・十文を川に落としてしまった。

藤綱は、川に落とした銭・十文を探し見出すめ、水中を照らしすために五十文の松明を買い求めた。

その効果あって銭・十文を得ることが出来た』

時に人々は『小利大損』と嘲け笑った。


藤綱は、此の時嘲け笑った人々に対してこう諭した。

『落とした銭・十文は拾わなければ、天下の財産は失われてしまう。 だが 松明に買いのに払った五十文は

自分の損であっても、商人から商人に渡って大きな利益を生むことであろう』


というこの逸話は此の辺りで起こった話であると言い伝えられている。、


             大正十年三月 建之
                                      鎌 倉 町 青 年 団


鎌倉時代の名裁判官・青砥藤綱の話


『ある夜、滑川に銭十文を落とした。 そこで松明を買い、松明をかざして川ざらいをして、すべて見つけ出した。

  費用に五十文かかったことを知った町の人々はあざけ笑った。

  「十文といえども、天下の財産、見捨てるわけにはいかない。五十文は松明を売った商人の利益になる。」

  と言ったという。』


上記の碑石の逸話の外にこんな話もある。


  『藤綱の家来が誤って十三文の銭を川に落とした。

  「見つけた者には一文につき五文の賞金を出す」との布令を出した。

  其の日から東勝寺橋附近の川は銭を探す町の人達が押しかけた。その内の一人、自分の財布から毎日一文

  ずつ出して川底から拾ったようにみせかけて賞金をせしめた。 最後の十三文を見つけたと届けに来た時、

  藤綱は、その男に「実際に落としたのは十一文だと家来からの報告があった。 なのにこの銭は !」

  と尋問したのでその男の悪事がバレてしまった。

  罰とした、その男に落とした銭をすべて見つけるまで、裸で川ざらいをさせた』と。



【 青 砥 藤 綱 の 居 宅 】

  「 青 砥 藤 綱 邸 旧 蹟 」 の石碑は青砥橋を渡った先の住宅の間に建立されている。

  青砥橋を渡る手前に 重要文化財に指定されている『一条恵観公山荘茶屋』 (山田宋偏流茶人山田宋偏氏邸と茶道場)

  がある。


  「 青 砥 藤 綱 邸 旧 蹟 」 ヘージを併せご参照下さい。

                           ⇒   

【 青 砥 藤 綱 ついて 文 学 散 歩 】

      
  1. 『青砥藤綱模稜案』 滝沢馬琴作・葛飾北斎画。 前編;文化8年(1811)・ 後編;文化9年(1812) 刊

  2. 和漢の訴訟・裁許の物語を潤色して、名半官藤綱の裁断物語としたもの。 絵入り。

      
  3. 『裸川』 太宰 治著

  4. 藤綱の逸話を題材にした創作作品。