日蓮聖人辻説法之阯 (nichiren-seltuhou-ato)の石碑文の説明
☆ 日蓮聖人辻説法之阯の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・
此の辺り 鎌倉時代には、屋敷町と商家町との境をなす処であった。
幕府にも近いところでもあって殷賑を極めた(極めて賑やかな)所であった。
建長五年(1253年)五月、日蓮上人は、房州(千葉県) から鎌倉に出てきて、松葉ケ谷に草庵を建て
毎日 この辺りの路傍に立って、伝道の説法を行い、世間の人々に対して 獅子吼(説法)を続けた阯である。
人々は、「日蓮上人の辻説法の旧蹟」として伝えている。
昭和十一年三月 建
鎌 倉 町 青 年 団
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「日蓮腰掛石」
この「日蓮聖人辻説法之阯地」は明治34年(1901年)に日蓮の信者であった 田中智学によってつくられた。
ここに日蓮が、辻説法をした折に腰掛と言われている「日蓮腰掛石」がある。
今この一画には、日蓮腰掛の前に「泰山木」が植えられ、7月に白色の大輪の花をみることが出来る。
かっては現在地の向い側に「 妙 勝 寺 」と言う日蓮宗の寺が在って、ここに日蓮の遺跡を顕彰しようと考えたが
地主の許可がとれず、現在地になつたと言う。
「妙勝寺」は江戸末期頃には無住となり、明治になって廃寺になったと言われている。
「妙勝寺」跡地は昭和34年頃まで、祟りがあるとの噂があって空き地であつた。現在は邸宅となつている。
【妙勝寺】は 出展;「鎌倉廃寺辞典」(貫 達人・川副武胤著)による
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「鎌倉での布教活動」 … 日蓮の『辻説法』は無かったという説 …
一般に、日蓮の鎌倉における初期の布教方法は、人々の賑やかに行き交う辻で、大衆に呼びかける「辻説法」
だったとされているが、…歴史家の通説は、『辻説法』を行ったという根拠がなく、この説は誤りである
と云う。 … その理由として次の二点を挙げている。
(1) 日蓮聖人の御書に辻説法をしたと言う記述が一箇所もない事
(2) 当時の法令によれば辻説法は違法行為であり、取り締まりの対象となっていた。
随って実行不可能な社会情勢であったこと、等があげられる。
当時のに日蓮の鎌倉での布教方法は …
「或いは日蓮が住処に伺い、或いはかしこへよぶ」とあり、他宗の僧俗が、日蓮の草庵へおしかけたり、
自分の寺や屋敷に日蓮を招いて、一対一の説話で正法弘教が行われたことで、布教活動が行われた。
【鎌倉での布教活動】は 出展;「御書にみる鎌倉時代(1)」(河合 一・仲村勝三 共著)を参考にする
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