夷 堂 橋 (ebisu-doo-hashi)の石碑文の説明


☆ 夷堂橋の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

    この橋は「鎌倉十橋」の一つである。
    此の辺りには、昔 「 夷 堂 」があった と伝えられている。

  此の橋の下の流れは、上流において 「 胡 桃 (くるみ)川 」 と言い、
  流れ下って、浄 明 寺 門 前 に至って 「 滑 川 」   と呼ばれ、
  「 文 覚 上 人 の 屋 敷 」 辺りでは 「 座 禅 川 」 と唱え、
  この「 夷 堂 (えびすどう) 址 」 辺では 「 夷 堂 川 」 と称している。
  さらに下流の「 延 命 寺 」 の傍らでは 「 す み う り 川 」 と名付けられ、
  「 閻 魔 (えんま) 堂 址 」 の辺りで、 「 閻 魔 川 」 と言っている。

       昭和七年三月 建
                                鎌 倉 町 青 年 団



【夷 堂】
夷 堂 (えびす どう)

   江で時代までは、夷堂橋のたもとにあった「夷堂」は明治初年の神仏分離のため、
 寺と分けられて現在の「蛭子ひるこ神社」と名付けられて、、現在の蛭子神社の地点に移転した。
 本覚寺から小町大路を宝戒寺にむかって 50m進んだ右側にある。小町の鎮守である。
 現在「夷堂」は、再び昭和56年(1981年)に本覚寺(山門(仁王門)を入って右側に移されて
 再建された。
 この辺りは、小町と大町との境にあって、中世においては、大町大路と呼ぶ道筋にあって
  材木座・小町を結ぶ重要な地点であった。
 この『夷堂」は、鎌倉幕府の鬼門の方角にあたると言うことで、
 源 頼朝が幕府の守り神として七福神を祀ったところである。

 現在も鎌倉七福神の「恵比寿(えびす)」となっています。
【鎌倉の七福神】
  浄智寺…布袋尊。鶴岡八幡宮旗上弁財天…弁財天。妙降寺…寿老人。本覚寺…寿神(恵比寿)。
  安養院…毘沙門天。長谷寺…大黒天。御霊神社…福禄寿。

※ 鶴岡八幡宮旗上弁財天の弁財天は、鎌倉国宝館に安置されてます。
  長谷寺の大黒天は大黒堂・宝物館に、御霊神社の福禄寿は宝蔵庫に安置されています。



【 夷 堂 橋 附 近  散 策】



蛭子神社 (ひるこ じんじゃ)
前述の通り本覚寺境内にあった「夷堂」は明治初年の
神仏分離のため、現在地に移り「蛭子ひるこ神社」と名付けられた。
昭和56年(1981年)に「夷堂」は再び本覚寺戻る。
小町下町の七面大明神、並びに小町上町の宝戒寺鎮守の
山王大権現が祀られている。
本殿は関東大震災で崩壊、昭和8年に改築された。

琴弾橋 
日蓮辻説法跡と蛭子神社との間の露地を入る。
朱色の木組みの欄干に黒の擬宝珠ぎぼしの橋がある。
周囲の緑の橋の向こうに洋館がみえる、古都鎌倉の雰囲気
が楽しめる。
鎌倉十橋ではない。
本殿は関東大震災で崩壊、昭和8年に改築された。
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「日蓮聖人辻説法跡」