『吾妻鏡』における 下 馬 (geba-michi) の記述
下 馬にかんする『吾妻鏡』における記述・・・
《 養和 年( 年) 月 日 乙酉》 の条
『
。』
下馬橋及び橋辺の古事
『 和 田 義 盛 の 乱 』
建保5年(1217)5月義盛は中の下馬橋に兵が集め一族を率いて北条義時を攻め2日間に
わたって戦ったが破れ、前浜に引き上げ、腹を切って死んだと言う。
一族の墓は『和田塚』にある《別項で掲載》
仁治2年(1241)11月三浦一族、小山の輩とこの橋辺にて闘争する。
寛元4年(1246)鎌倉中の民静ならず、辻辻を固める。
渋谷一族及び北条時頼此の処を警備する。
建長3年(1251)2月甘縄辺焼亡の時、此地もその災を被る。
建長3年(1251)4月宗尊親王、鎌倉入御の時、此の辺り時頼の家臣等が警護の役にあたり
群集は集まり拝観山の如しであった。