「東鑑」(吾妻鏡)は「鶴岡八幡宮」に次のように記述されている。 『本社は、伊予の守 源 頼義 が勅命によって阿部貞任 征伐の時、懇ろに祈って、 康平六年(1063年)秋八月、ひそかに「岩清水八幡宮」を勧請し、その社殿を当国の由比ガ浜に創建した。 永保元年(1081年)二月、陸奥守 源 義家 が修理した。」とあるのは、此処の処である。 「鶴岡」と言うのは、昔 此の辺りの地名を呼んだと想われる。 その後、治承四年(1180年)十月十二日、 源 頼朝 が祖崇を尊崇するため、小林の郷、北の山を定めて 宮の廟を構建して、由比の宮を遷し奉つた。 この社殿が、現在の「鶴岡八幡宮」である。 「東鑑」(吾妻鏡)に… 『治承四年十月七日、頼朝はまずはるか鶴岡八幡宮を拝んだ。』 とあるのは、 由比ガ浜の宮である。 小林 の郷に遷宮の後も、「鶴岡八幡宮」と言っているのは、昔のままの呼び方に従っているのである。 其の後は、この由比ガ浜の地にある宮を「元八幡」(また「下の若宮」)と言っている。 昭和三年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 団 |
1916〜1917(大正 5年12月〜大正 6年 9月) 「鎌倉由比ガ浜の海浜ホテルの隣りの野間というクリニング店の二階に下宿した。」 大正五年 七月 東京帝大 英文科卒業。 同 年 九月 『芋粥』・ 十月『手布』 を発表。 同年 十二月 一高時代の恩師 畔 柳都太郎の紹介で 横須賀の海軍機関学校の教授嘱託とり、鎌倉に下宿する。 月俸は六十円であった。 同年 十二月九日 師と仰ぐ 夏目漱石 が死亡、 その葬儀の受付を担当した。 同年 十二月十三日 塚本 文子 に返事の手紙をだす。 ⇔ 其の手紙に 左記 の地図が描かれている。 龍之介 には「我鬼」、「澄江堂主人」 などの 別号 がある。 |
1918〜1919(大正 7年 3月〜大正 8年 4月) 「鎌倉 大町字辻 の小山別邸内 に住む。」 大正七年 二月二日 塚本 文子 と結婚する。 披露宴は田端の『自笑軒』 で催す。 同年 三月下旬 上記の鎌倉大町に移り 新婚生活を送った。 『僕は当時 鎌倉の辻という処に住んでいた。 借家は或る実業家の別荘の中に建っていたから、 芭蕉が軒を遮ったり、広い池が見渡せたり、存外 居心地のよい住居だった。』 《身のまはり》の一節。 ……伯母と小間使いの女の子と一緒だった…… ……この時の家賃は「十八円」を越えたことはなかった。 抽斗しのある長火鉢を五円で買った。 八畳二間・六畳一間・四畳半二間・湯殿や台所があった。 |
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□□□□〜□□□□(大正12年夏) 「鎌倉駅近くの平野屋の旅館に逗留する。」 避暑で「岡本かの子」と同宿した。 この時のことを岡本かの子は「鶴は病みき」(昭和11年)で芥川との回想を綴っている。 |
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龍之介の死 昭和二年(1927年)一月四日、姉ヒサの嫁ぎ先西川 豊の家が半焼した。二日後、放火の嫌疑をかけられ た西川が千葉県山武郡土気トンネル付近で鉄道自殺を遂げた。龍之介は、その後始末のため東奔西走す る。 その間、帝国ホテルを仕事場にして『河童』や『蜃気楼』などを執筆した。 七月二十四日未明、龍之介 三十五歳 田端の自宅で、ヴェロナールおよび ジャールの致死量を 飲んで自殺。枕許に「聖書」がおかれ、夫人、菊池 寛らに宛てた遺書があった。 |
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【人物紹介】は 出展;「文学都市かまくら100人」(鎌倉文学館発行)&「かまくら文壇史」(巌谷大四著)による |