比企能員邸址 (hiki-yoshikazu-ato) の歴史
妙本寺の総門前に「比企能員邸址」の石碑は建立されている。
妙本寺は、文応元年(1260年)に開山は日朝上人。開基は、比企
能員
よしかず
の子
能本
よしもと
の建立である。
妙本寺は、全国日蓮宗寺院の中で、身延山久遠寺・池上本門寺とともに最古の道場として特別の寺別のもつ寺である。
建仁3年(1203)
比企の乱
にて、北條時政は、比企ケ谷に向けて兵を出し比企の館に火をかけ、能員、一幡(6歳)
をはしめ比企一族百名余り此の地にて滅亡した。
比企の乱
…
建仁3年、二代将軍 頼家は病気になり、心身脳乱し、政子は頼家に知らさず将軍職を
頼家の子・一幡に関東を、弟千幡(実朝)に関西を譲ることにした。
一幡の外祖父・比企能員は将軍に一幡を推すべく北條氏討滅を企てる。
これを知った政子は父時政と相談して、仏像供養との口実で能員を名越の館に呼び
仁田四郎忠常の手で殺害してしまう。
比企一族は、一幡の小御所・比企谷の邸に籠り、叛乱を起こす。
政子は、江馬、小山、和田等の群をさしむけて、叛乱を鎮め、比企一族を滅亡する。
その後、頼家は伊豆修善寺に幽閉されて、建保3年(1215年)に死亡する。
そのあと、12歳の実朝が第3代将軍として登場する。
【 袖 塚 】一 幡 の 墓
【 比 企 能 員 公 一 族 之 墓 】 五輪塔が四基
一幡の母・若狭局の霊を供養する為に「
蛇苦止
じゃくし
明神」はたてられた。
当時、一歳であった能員の子、能本は、比企一族の内惟一人、奇跡的に難を逃れた。
能本は、60年後(1260年)に比企一族の霊を弔うため、法華堂を建てた、妙本寺の発祥である。
総門を100mほど登り進むと石段の先に朱塗りの二天門がある。 天保3年(1832年)に造立された。
祖師堂(間口10間の木造の入母屋造り)は、二天門と同じ年、 天保3年(1832年)に造立された。
祖師堂に向かって右 山際に 五輪塔が四基・「比企能員公一族之墓」がある。