・・・仙 覚 年 表 ・・・
西 暦 元 号 数え年 事     柄
1192 建久3 源頼朝が征夷大将軍となる。
源実朝が誕生する。
1199 正冶1 頼朝 没 53才
1203 建仁3 仙覚、あずまの道の果てに生まれる。
竹の御所よし子、生まれる。
比企一族滅亡する。
源頼家、修善寺に幽閉される。
源実朝、征夷大将軍となる。
1204 元久1 源頼家、修善寺にて殺される。
1206 建永1 比企茂員(しげかず)、岩殿山の別当に養われる。
1215 建保3 12 仙覚、万葉集の研究を志す。
1218 建保6 15 比企茂員、京に上りて順徳天皇の北面武士となる。
1219 承久1 16 源実朝、公暁に殺される。
藤原頼経、鎌倉に下着。
1221 承久3 19 承久の乱、起こる。
1225 嘉禄1 23 北条政子 没 69才
1226 嘉禄2 24 竹の御所よし子、泰時の邸に方違え
1230 寛喜2 28 竹の御所よし子、頼経の室となる。
1234 天福2 32 竹の御所よし子 没 32才
1235 嘉視1 33 北条泰時、竹の御所一周忌追善のために仏像を造る。
1242 仁冶3 40 仙覚の名が大和当麻寺の勧縁衆の中に見えている。
1243 寛元元 41 歌学者源親行が将軍藤原頼経の命を受け、万葉集の校訂を開始。
1246 寛元4 44 仙覚、将軍頼経の命により万葉の諸写本を校合を開始する。初度の校訂本作成。親行本と三箇証本にて校訂に従事。(1月)
仙覚、無点歌152首に新点を加える。(7月14日)
仙覚、新釈迦堂にて治定本を書写し了った。(12月22日)
1247 宝治1 45 仙覚、寛元本巻一の奥書に「生年四十五」と記す。(2月)
三浦の戦い、一族滅亡。
1251 建長3 49 仙覚、駿河の国に赴く。その後、京に上る。
1253 建長5 51 仙覚、万葉集の新点を後嵯峨上皇(仙洞)に奏覧する。(12月)
1256 康元1 54 藤原頼経 没 39才
1257 正嘉1 55 比企茂員 祖父の地比企横見が従妹の竹の御所の領地になりたる事を聞き、その子、小太郎員長と共に中山村に居住する。
1260 文応1 58 北条義時の子、政村の娘が邪気を病んで脳乱する。(蛇苦止明神伝説)
1261 弘長1 59 仙覚、夏ごろには松殿御本、尚書禅門真観本、基長中納言本を以て再校を遂げる
1262 弘長2 60 仙覚、六條家本を以て比校し了った
1263 弘長3 61 仙覚、忠定御本を以て比校し了った
1265 文永2 63 仙覚、左京兆本を以て校合する
続古今集に歌(花の歌とてよめる)を選びいれられる。
1266 文永3 64 仙覚、巻一に奥書をなす(8/18)
仙覚、巻二十に奥書をなす(8/23)
1269 文永6 67 小川町増尾地区にて本格的な万葉集の註釈本『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)を完成させる。(2〜4月)
1272 文永9 70 仙覚、万葉を一校、奥書記す。これを最後に仙覚についての記録はない。(8月)
1283 弘安6 関東下知状に比企谷新釈迦堂供僧職寺の事が記されている。
1286 弘安9 大学三郎能本、後の日学上人 没
1352 文和元 十一月十五日、足利尊氏が比企谷『新釈迦堂供僧職』補任する。
1415 応永22 十二月二十日、足利持氏が比企谷『新釈迦堂供僧職』補任する。 
1851 嘉永4 「大日本史」徳川斉昭に依って出版される。「長興山妙本志」もこの頃出版されたものと思われる。
1927 昭和2 仙覚律師遺跡碑 県指定史跡に定められる
1928 昭和3 佐佐木信綱、徳川達孝等々、仙覚律師遺跡保存会に依って、「仙覚律師顕彰碑」が建てられる。(4月)
昭和天皇の大礼に当たり従四位を、天台宗においては僧正を追贈された。(11/10)
1961 昭和36 仙覚律師遺跡 県指定旧跡に指定替えされる。 9/1
1963 昭和38 佐佐木信綱 没 91才 12/2
2003 平成15 仙覚生誕800年を記念し「仙覚万葉の会」が発足 7/25
2004 平成16 「仙覚万葉の会」学習会として意見交換の場を設置 6/30
2005 平成17 仙覚万葉の会がNPOとして活動を開始
現在に至る