「 蓮 華 寺 」 ⇒ 「 光 明 寺 」 の 歴 史
蓮華寺址・光明寺の歴史
- 第4代執権北條経時は然阿良忠(記主禅師)を開山として、佐助谷に蓮華寺を建立した。
- 然阿良忠、仁治元年(1240年)、鎌倉に入り「住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた。
- いま、逗子市小坪373番地にある「住吉山悟真院正覚寺」は、もと悟真寺の地にあったという。
- 然阿良忠は弘安10年(1287年)7月6日に亡くなり、「住吉の瓶子」山麓の荼毘所(悟真院正覚寺)に埋葬された。
- 悟真寺房地は佐助にあった、・・・佐助に 蓮花寺跡と伝える処あり、呼び名を光明寺畠
- (「薬種の伝説(繁栄稲荷大明神))というところもある。
- (注) 『鎌倉佐助浄刹光明寺開山御伝』(「鎌倉市史・寺社編」)による
- 北條経時は、寛元3年(1245年)5月に発病し、翌年3月に病状が悪化したため弟時頼に執権を譲り、
- 4月1日に亡くなった。
- 翌日、佐々目(笹目)の山麓に葬られた。
- (注) 『吾妻鏡』による。
- (注) 良忠は没後七回忌の永仁元年(1293年)7月、伏見天皇より記主禅師の称号を賜っている。
- 寛元元年(1243年)5月3日、現在の「天照山蓮華院光明寺」と改名し、現在地(材木座6-17-19)に移転した。
- 吉日を卜して良忠を導師として、前の蓮華の二字を残し蓮華院と名付ける供養した。
- (注) 『鎌倉佐助浄刹光明寺開山御伝』(「鎌倉市史・寺社編」)による
- 光明寺は第5代執権北條時頼以降も歴代執権の帰依を受け、大寺院に発展。念仏道場の中心となる。
- 蓮華寺 ⇒ 光明寺 以下の説もあります。
- 『鎌倉大日記』によると北條時頼が建長3年(1251年)、経時のために佐介ケ谷に蓮華寺を創設し、
- 良忠が住持したと伝えられている。・・・との説もあります。
- 北條(大仏)朝直が佐助ケ谷に創建した悟真寺に良忠が入り、後に蓮華寺と改め、
- その後材木座に移転し「光明寺」と改名した。・・・との説もあります。
- 北條朝直は、連署・北條時房の子で、大仏流北条氏の祖。良忠の外護者であった。
- 江戸時代、徳川家康が浄土宗学問所として関東の主要寺院十八寺を十八檀林に定め、光明寺は首座筆頭寺院となる。
- 朝廷との関係
- 永享8年(1436年)12月15日、山門に掲げられた「天照山」の扁額は後花水天皇の直筆と伝えられる。
- 明応4年(1495年)に後土御門天皇から関東総本山の称号を受け、勅願所に定められる。
- 同年、「十夜念仏」が勅許されて以来、現在も10月12日〜15日の期間、盛大に念仏法要が営まれる。
- 鎌倉アカデミア
- 昭和21年(1946年)文化育成を目的として、楽しい学園をめざして「鎌倉アカデミア」が開校された。
- 学長:三枝博音(哲学者)、教授:高見順(作家)、村山知義(演出家)等
- 結果、山口瞳(作家)、いずみたく(作曲家)、鈴木清順(映画監督)など多くの逸材を輩出した。
- 昭和25年(1950年)に閉校しました。
- 開山堂手前に「鎌倉アカデミア碑」が建立されている(平成8年(1996年)建立)
- 光明寺について
- 光明寺の裏山に北條経時の墓がある。
- 本堂左手にある記主庭園は小堀遠州(江戸時代の茶人・造園家)の弟子の作と伝えられている。
- 本堂右手には三尊五祖(阿弥陀三尊と釈迦・善導・法然・弁長・良忠の浄土宗の五僧を表わした石)の
- 枯山水様式の庭がある。
- 同園の池の紅蓮は大賀一郎博士が発芽させた古代バスといわれている。
- 日向延岡城主内藤氏・陸奥湯長井領主内藤等の墓塔群。(約20基、江戸霊厳寺より移す)
- 境内に入る前の総門
- この四脚門は明応4年(1495年)建立で寛永年間(1624〜1624年)に一部古材を使用して再興されたもの。
- 禅宗様式・欄間に龍と雲の彫刻、貫の木鼻は渦巻模様。
- 正面の五間重層の山門は鎌倉最大のもので、鶴岡八幡宮の表門であったという伝がある。
- 弘化4年(1847年)に再建された。
- 一階が和様、二階が唐様の折衷様式の二重楼門で、間口は16mふる。
- 楼上に釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られている。
- 繁栄稲荷大明神の小祠は一間社流造りで、社殿の中に享和2年(1802年)の勧請札が納められている。
- 良忠が佐助に住んでいた頃の霊験譚にもとづいて佐助稲荷から勧請したものという。
- 「当麻曼荼羅縁起絵巻二巻」(国宝)は鎌倉期の作品で、内藤家から延宝3年(1675年)に寄贈された
- ものである。