問注所旧跡 (monchiuzyo-kiuseki) の 歴 史
問注所旧跡の歴史
- 源 頼朝は鎌倉入りするや、矢つぎ早に武家政治の行政機関を設置した。
- 侍 所 (1180年設置) 御家人を統率し、軍事・警察を司る。初代別当 ;和田義盛を任命。
- 公文所 (1184年設置) 諸国の政治、経済を安定させるための一般政務・財政を司る。初代別当 ;大江広元
- 後に公家の制度にならい 政所 と改称。
- ◇ 門注所 設置 元暦元年(1184年)、
- 門注所 土地なぢの訴訟、裁判をを司る。 初代執事 ; 三善康信
- 門注所は、御所の中で東側の廊下を二間仕切っただけの場所であった。
- 問注所は、御所内にあった三善康信宅に移された。、
- 問注所の当初の仕事は、頼朝が裁定したものの事務所であった。
- 次第に訴訟文書の審理、訴訟人の召喚、訴訟記録の作成などの権限を持つようになる。
- ◇ 正治元年(1199年)、門注所 幕府外に移設
- 弘長元年(1261年)3月、御所炎上、政所・問注所等も全焼した。 … 何処に再建されたか、記録はない。…
- 「問注所跡」の石碑は、御成小学校正門の筋向かいに建立されている。…多分この辺り移された…
- 御成小学校の南に流れる佐助川に石橋が架けられ「裁許橋」と言う。
- 鎌倉時代、この道は、「武蔵大路」と呼ばれ、武蔵国から⇒亀ケ谷坂⇒仮粧坂⇒寿福寺前⇒裁許橋を渡り
- ⇒六地蔵で由比ガ浜大通りと交わるメインストリートであった。