万葉集に、鎌倉の 「美奈能瀬河」 とあるのは、この河である。 治承四年(1180年)十月、頼朝夫人 北条政子 鎌倉入りしようととして此処まで来てが、 日柄の都合で数日間、河辺の民家に宿泊したことがある。 源 頼朝が、元暦元年(1180年)【碑石の元暦九年は誤記】に弟の範頼の出陣を見送ったのも、 文治元年(1185年) 【碑石の正治元年は誤記】 に父 義朝 の遺骨を出迎えたのも、 共に 此の河辺である。 元弘三年(1333年)、新田義貞 が、鎌倉攻めの時、この攻め口の大将 大館宗氏 がこの川の辺りで 討死したことは、人々のよく知るところである。 こんな小さな河川に、是に纏わる物語は沢山ある。 大正十二年三月 鎌 倉 町 青 年 団 建 |
【 関 連 事 項 】 |
巻十一 「 うらぶれて 物は念じ 『水無瀬川』 在りても 水は逝くとふものを 」 (二八一七) 「 言(こと)とくば 中は不通(よど)ませ 『水無河』 絶ゆとふことを 有りこすな勤(ゆめ) 」(二七一二) 巻十四 「 ま愛(がな)しみさ 寝に吾(わ)行く 鎌倉の『美奈の瀬河』 に 潮満つなむか 」 (三三六六) …《恋人に会いに行く心急ぐ気持ちを読んだ歌。… …あの人のいる鎌倉の稲瀬川にもう潮が満ちてきただろうか。… |
「 汐よりも霞や先に満ちぬらむ みなのせ川の明る湊は 」 |
鎌倉時代、この稲瀬川が、町の境界として、人の出会いや別れの場になっていた。 歌に良く出てくるのは、このためであろう。… |