安達盛長(adachi-morinaga)の略 年 譜

    安 達 盛 長 の 出 目

  1. 安達氏は、藤原北家魚名流に系譜をひき、「秋田城介祖 相継」は上野介・備前守を、その子
    「相国」は上野椽、「国重」は下野椽・出羽介となっている。
    兼盛の代に小野田姓を称し、その子盛長の時に始めて安達姓を称するようになる。
    【藤原氏略系図】

    鎌 足 ⇒ 不 比 等 ⇒ 房 前 ( 北 家 ) ⇒ [ 魚 名 ]… 藤 原 北 家 


    「安達藤九郎盛長」は、「小野田三郎兼盛(広)の子で「安達六郎」又は「小野田藤九郎」と称した。
    頼朝の乳母の一人比企尼の長女(円後内侍)の婿にあたる。
    円後内侍は京にあって二条院に仕え惟宗広と密通して島津忠久を生み、その後、

    関東に帰って安達盛長に嫁ぎ数子を産んでいる。

    安達盛長の妻・円後内侍は甘縄宅に居住している      《吾妻鏡;文治2年6月10日条》


  2. 頼朝は、永暦2年(1160)から20年間、流罪となって伊豆で配流生活を送っている。
    この時期、盛長も、伊豆北條の地で頼朝とともに生活している。

  3. 盛長は、頼朝の使者として、文覚上人のもとに派遣されている。

    治承3年(1179)には武蔵国慈光山へ「御使」として派遣されている。  《吾妻鏡;文治5年6月29日条》

    内乱過程の安達盛長