嘉禄元年(1225年)三月、二位の禅尼 北条政子は、頼朝の追善供養の為、笹目ケ谷辺に 八町四方の地を定め、七堂伽藍を造営して寺を建て、「長楽寺」 と名付けた。 元弘三年(1333年)五月、北条氏が新田義貞に攻め滅ぼされた際、兵火にあい焼失したと言う。 此の地は、長楽寺があった遺地で、現在も小字として「長楽寺」と言っている。 昭和六年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 団 |
【 関 連 事 項 】 |
現在の「長楽寺」の小字名の位置… 乱橋材木座 1404〜1409番地、 長 谷 211〜225番地 坂 ノ 下 240〜242番地 の字を長楽寺 という。 |
(1) 嘉禄元年(1225年)に、政子が頼朝の菩提を弔うために創建した寺と言うが、 《吾妻鏡》には、その記録はない。… 吾妻鏡 「文応元年(1260年)四月二十九日の条」に 『丑の刻 鎌倉中大焼亡、長楽寺 より亀ケ谷の人屋に至る』 とだけ記述、ある」 (2) 《新編相模風土記》には … 笹目ガ谷に 『 祇園山 長楽寺 安養院 』 のあった事を伝えている。 (3) その他 《鎌倉志》・《金沢文庫古文書》・《頼朝会雑誌》・《日蓮聖人御遺文》 等々に長楽寺の記述ある。 (4) 北条政子が開基した「安養院」は長楽寺の後身であると言われている。 … |