平 盛 国 及び 主 馬 盛 久 の 歴 史


◇◇盛 久 系 図◇◇





平 盛国もりくに        (永久元年(1113年)〜文治2年(1186年))

主馬半官しゆめのはんかん 下総守平季衡の七男。平氏の一族の譜代相伝の家人。清盛側近の侍。

左右衛門尉を歴任   ・・・《兵範記・保元2年(1157年)10月27日、29日条による》


清盛が、長寛2年に厳島神社へ奉納した『平家納経 法華経分別功徳品第17』(国宝)に「左衛門尉平盛国」と署名してる。
同社蔵の「舞楽面 二ノ舞」(二面)(重要文化財)の裏には、承安3年(1173年)8月付けで「盛国朝臣調進」との朱銘がある。

仁安元年(1166年)10月、憲仁のりひと親王(後の高倉天皇)の立太子に際して主馬首しゆめのかみに任官する。

                ・・・《兵範記・仁安元年(1166年)10月10日条による》


主馬盛国の邸は九条河原口にあり、平清盛はここで他界したという。

                ・・・《「吾妻鏡」養和元年(1181年)閏2月4日条による》・・・


文治元年(1185年)、盛国は壇ノ浦で生け捕られた平宗盛むねもりと共二鎌倉に下向

岡崎義実に預けられた。  ・・・《「吾妻鏡」文治元年(1185年)5月16日条による》・・・


以後、日夜無言で法華経に向い続け、最後は断食して、74歳で他界したという。

                ・・・《「吾妻鏡」文治2年(1186年)7月25日条による》・・・



平 盛国の生没年について
《「吾妻鏡」文治2年(1186年)7月25日条による》によれば、伊勢守等にも就任し、承安2年(1172年)10月19日、出家するとある

が、先述の「舞楽面の銘」や『玉葉』によれば承安3年の時はまだ存命中である。

父季衡の没年(永保元年(1081))等なとと照らし合わせると没年に矛盾を感ずるが、生没年の判断は『吾妻鏡』記載の享年による。


            《以上「平盛国」については、主に 「平家物語を知る辞典」(日下力・鈴木章・出口久徳共著)を参考にする。》






平 盛久もりひさ

『平盛久は、伊勢守・盛国の八男に生まれ、以前に主馬半官と呼ばれた盛国のあざなに因んで主馬八郎

左衛門と言われた。


承安3年(1173年)頃、東寺の潅頂堂を修理し、その成功によって承安4年の正月、右兵衛尉に任じ

られた。   ・・・(省略)・・・


盛久は若年より仏心が篤く、仁安2年(1167年)には、紀伊国牟婁むろ郡の戸張保とばりのほその他の未開墾地を

高野山に寄進している。


  源平の合戦を通じて盛久は、戦に加わったけれども、特別の武勲をたてなかった。

しかし檀ノ浦の後、彼は大胆にも都に潜入したのであった。 長門本『平家物語』(巻第20)によ

ると、清水寺の阿闍梨あじゃり・良観に篤く帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを

金堂の内陣の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始めた。


壇ノ浦から落ちた盛久や盛嗣(盛久の兄)らに対しては、平家の残党として捜査の眼が光っていた

が、まさか都に潜伏しているとは思わなかったため、盛久は反って逮捕を免れていた。



 文治2年(1186年)に入ってから、ある下女が盛久のことを鎌倉方に密告した。

長門本では、北條家の平時政が鎌倉の代官として都に駐在していた時、(文治元年11月25日〜

翌2年3月28日まで)のこととされているが、どうもこれは左馬頭・藤原能保が文治2年3月27日、

京都守護職となり、鎌倉の代官を勤めた直後のことらしい。この下女は、慾に眼が眩んだと言う

よりも、嫉妬などから密告したのであろう。密告によって盛久が毎夜、白い直垂ひたたれを着、はだしで清水

寺に詣でていることが判明したので、彼は直ちに召捕られてしまった。


  鎌倉に護送された盛久にたいしては、平景時が取調べに当たつたけれども、彼は心中の所願

については殆ど陳べなかった。ともかく平家の重代相伝の家人として盛久は処刑されることとなつた。

命を承けた御家人の土屋三郎こと平宗遠は、文治2年の6月28日、盛久を由井比浜に引据え、太刀を

抜いて頸を刎ねようとしたところ、刀身が三つに折れてしまった。別の太刀でまた斬ろうとしたが、

今度は目釘から折れた。奇異に感じた宗遠は、清水寺の観音の加護のためか、刀が折れ、盛久の頸が

斬れなかった旨を頼朝に言上した。ちょうどさの時、正妻の平政子は、清水寺のあたりに住む墨染の

衣を着た老僧が現れて、盛久の斬罪を枉げて宥すよう頼んだ夢目を見た。そこで頼朝は盛久を召し、

親しく彼に問うこととした。



  頼朝の問いに対して盛費さは、清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた

旨を答えた。頼朝はまた彼に所領のことを訊ねたので、彼は紀伊国に荘園を所領していたが、平家

没官もっかん領として頼朝の手に帰している由を述べた。頼朝は、盛久の旧領の荘園を彼に返付すること約し、

所領安堵の下文くだしぶみを与え、また都に帰るため鞍馬一匹を彼に贈った。さらに頼朝は、後白河法皇の法住

寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡の池田荘(現在、今立郡池田町)を盛久に与え、その収益

をもって法皇の御所を造営させるよう北條時政に命じたのであった。



  都に入った盛久は、宿所に行くより先に清水寺に参つて良観阿闍梨につぶさに事の次第を報告した。

阿闍梨は、去る6月28日の午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れたので、寺では大変不思

議に思っていたが、遥か鎌倉の地にある貴殿を救済されるためであることが分かったと語った。

都の貴賤ぱこの話をきき、新造の千手観音の御利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏をいや

が上にも尊んだと言うことである。



  右の観音利生譚は、よほど有名であったらしく、謡曲『盛久』の主題にまでなっている。

とは言っても、何等かの事情で盛久が放免されたことや、彼が紀伊国に荘園をもっていたことなどは、

先ず確実であろう。ただ盛久に越前国の池田荘(の領所職)を与え、法住寺殿の再建に当たらしめたと

言うのは問題でふる。法住寺殿は、寿永2年(1183年)11月、『法住寺合戦』の祈りに焼亡して以来、

建久2年まで再建されなかったからである。恐らくは、越前国がその御車宿、西廊、召次所の造営を

担当した文治4年における法皇御所・六条殿(六条大路北・西洞院大路西)の造営を先にさかのばらしめて書

いたものであるまいか。いずれにせよ、盛久が好運にも罪科を赦され、所領の安堵を得て安らかな晩

年を送ったことは、察するに難くないのである。・・・(以下省略)・・・』


   以上長文に渡って・・「平家後抄 上 」(角田文衛著)p133〜p136の原文・・を記載させて貰いました。