主馬盛久ノ頸座 (shiuba-morishisa-keiza-basho)の石碑文の説明
☆ 主馬盛久ノ頸座 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・
盛久 は主馬入道盛国の子で、平家に代々仕えた武士であつた。
平家が滅亡後、京都に潜んでいたが、年来の宿願であった清水寺への参詣の帰途に、
北条時政の配下の者に召し捕されて、鎌倉に護送された。
文治二年(1186年)六月二十八日、此の地で斬罪されようとしたところ 示現があり、
罪を許された。 其の上、源 頼朝は、盛久に対して領土保証する 下文を発給した。
昭和十年三月
鎌倉町青年団 建
※ 『
主馬首
しゆめのかみ
』・・・「東宮坊に属し、東宮の馬に関する事柄を管轄した役所主馬署の長官」を言う。
千手観音の話
文治2年(1186年)6月28日、主馬盛久はこの地で斬首されようとした。
その時、
髻
もとどり
にひさませていた清水観音像に刀が当って首が切れなかった。そして赦免されたと言う話。
この
髻
もとどり
にひさませていた千手観音は恵心僧都の作と伝えられ、盛久の守り本尊であった。
その後、この仏は、
上野寛永寺の清水観音堂
の本尊になっている という伝えがある。
今でも、観音堂の堂内には平家物語にちなんだ 寛政・天明期に造られた「盛久危難の図」・「千手観音」
の絵馬や額などが掲げてある。