石碑で甦る荒居閻魔堂の歴史
円応寺建立から小袋坂上に移るまで の 時 代
- 「鎌倉市史社寺編」の円応寺の項を中心にして。
- 建長2年 (1250年) 円応寺建立
- (閻魔王像胎内銘より)
建長3年 (1251年) 円応寺建立
- (初江王像胎内銘より)
- 初江王像胎内銘よると、建長3年8月 善勧房という人が願主となり
仏師 幸有が造立したものである。
延慶2年 (1309年) 円応寺開山といわれる 知覚禅師 寂す。
- (円応寺開山を知覚禅師とみるのは、年代的にみて否定的)
- 開山は知覚禅師(桑田道海)と伝えるが、道海は延慶2年 (1309年)に寂しており、当寺の初江王像胎内銘による
と造立年代建長3年(1251年)からみてかなり隔っているのでこの説は無理の様のように思われる。
- 明応9年 (1500年) 閻魔堂はしめ 由井卿見越岩 (大仏の東の山) にあり これを移転す。
- (荒居閻魔堂円応寺修造勧進状より)
- 『文明明応年間関東禅林詩文等抄禄』の中の明応9年7月立秋日の荒居閻魔堂円応寺修理勧進状によると、
由井郷見越岩にあったのを、「荒居鯨海□前、鶴岡在後、右長谷十二面当途五焉、左市テン四ケ町屠児焉』
という場所に移したという。即ち此れ以後は海に面して建っていたことがわかる。
- 滑川の川岸へと移転した。
- 鎌倉市材木座5丁目11番地に新居雲魔堂跡を示す石碑が建っている。
現在の川岸から200m余程 東側に離れているが、閻魔堂建立当時はこのあたりが川岸だったのであろう。
滑川の下流であるこの辺りは別名「閻魔川」と呼ばれているが、これはこの閻魔堂に由来する。
- 永正17年 (1520年) 再興
- (閻魔王像胎内銘より)
寛文13年 (1637年) 閻魔王像修理の際 胎内銘を発見
- 寛文13年に閻魔王像修理の際 胎内に文書が入っており、それによると
「建長2年出来 永正17年再興、仏師下野眼如円、建長役人徳順判、興瑚判」とあったことから
堂宇も明応9年(1500年)から永正17年(1520年)の間に再興された と推定されている。
- 元禄16年 (1703年) あらい円応寺ゑんま堂大破 ⇒ 小袋坂上に移転
- (震災年表より)
- 『震災年表』に、「元禄16年11月22日 あらい円応寺ゑんま堂大破いたし候、光明寺津波入、山々ゆりくづし」
云々とあり、『鎌倉震災誌』に元禄年間建立の仏殿が倒潰した旨の記載がある。
- 享保2年 (1717年) 閻魔はすでに小袋坂上にあった。
- (遊湘紀事より)
- 『享保2年 (1717年)9月26日、荻生徂徠門下の太宰泰台・安藤東野・山井昆命は、「建長寺を出て、、
新井閻魔堂、浄智寺・東慶寺の順に遊覧し、この日、鶴岡八幡宮に参拝する』と《遊湘紀事》に記している。
この紀行記からも、この時、享保2年 (1717年)に既に小袋坂上にあった事がわかる。
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