【吾妻鏡】
『 将軍家先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って、 唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従人六十余輩を定めらる。 朝光これを奉行す。相州(義時)・奥州頻りに以てこれを諫め申さると雖も、御許容に能わず。 造船の沙汰に及ぶと。 』 『 宋人和卿 唐船を造畢す。今日数百輩の疋夫を諸御家人に召し、彼の船を由比浦に浮かべんと擬す。 即ち御出有り。右京(義時)兆監臨し給う。信濃の守(二階堂)行光 今日の行事たり。和卿 の訓説に随い、 諸人筋力を尽くしてこれを曳く。午の刻より申の斜めに至る。 然れど もこの所の躰たらく、唐船 出入すべきの海浦に非ざるの間、浮かべ出すこと能わず。 仍って還御す。彼の船は徒に砂頭に朽 ち損ずと云々。 』 『 去る比、信濃の国諏方社頭の湖に大島並びに唐船等片時の間出現す。消えるが如くして失せると。 この事先規無きの由、社家驚き申すと。 』 『 … また唐船の事沙汰有り。その員数を定めらる。即ち今日これを施行せらる。 唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。 建長六年四月二十九日 勧湛 實綱 寂阿 筑前々司殿 (二階堂行泰) 大田民部大夫殿 (大 田康蓮) 』 |