『吾妻鏡』における「唐船に関する」 の記述

【唐船の史料】

  「吾妻鏡」にみる「唐船」にかんする記述は次の4箇所(@・A・B・C)である。

【吾妻鏡】
@ 《 建保四年(1216年)11月24日 癸夘 》 の条  晴。
   『 将軍家先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って、
   唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従人六十余輩を定めらる。
   朝光これを奉行す。相州(義時)・奥州頻りに以てこれを諫め申さると雖も、御許容に能わず。
   造船の沙汰に及ぶと。 』
 
A 《 建保五年(1217年)4月17日 甲子 》 の条  晴。
   『 宋人和卿 唐船とうせん造畢ぞうひつす。今日数百輩の疋夫ひっぷを諸御家人に召し、彼の船を由比浦に浮かべんと擬す。
   即ち御出有り。右京(義時)兆監臨し給う。信濃の守(二階堂)行光 今日の行事たり。和卿 の訓説に随い、
   諸人筋力を尽くしてこれを曳く。午の刻より申の斜めに至る。
   然れど もこの所のていたらく、唐船 出入すべきの海浦に非ざるの間、浮かべ出すこと能わず。
   仍って還御す。彼の船は徒に砂頭に ち損ずと云々。 』

B 《 建長三年(1251年)3月14日 甲戌 》 の条  天晴。
   『 去る比、信濃の国諏方社頭の湖に大島並びに唐船等片時の間出現す。消えるが如くして失せると。
   この事先規無きの由、社家驚き申すと。 』

 
C 《 建長六年(1254年)4月29日 辛未 》 の条。
   『 … また唐船の事沙汰有り。その員数を定めらる。即ち今日これを施行せらる。
       唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。
          建長六年四月二十九日          勧湛
                              實綱
                              寂阿
          筑前々司殿    (二階堂行泰)
          大田民部大夫殿  (大 田康蓮)              』