『吾妻鏡』における「和賀江島」 (Wakae-shima) の記述

《T》【和賀江島の港が整備される以前の情景】…『海道記』…

 頼朝が鎌倉入りして40年が経ち鎌倉の繁栄も絶頂期に掛かるころの或る京都の公家が鎌倉を訪れ、
 鎌倉滞在10日間の見聞記のひと駒、由比が浜の夕景を此の様に記述している。
        《作者、不詳(源光行とも鴨長明とも言われている)。貞応二年(1,223) 『海道記』 成立年代不詳》

  貞応二年(1,223)四月十七日 夕刻
     『…申の斜めに湯井の浜に落着ぬ。しばらく休み此所をみれば、数百艘の舟ども
     綱をくさりて、大伴の浦に似たり。千万宇の宅軒をならべて大淀のわたりに異ならず。…』


 義時が執権の時であるが、相当の賑わいが伺える。
   ただ由比ケ浜に入港した大船はこの和賀江島の海岸は遠浅であったため、接岸出来ず、
   荷物の揚げ降ろしは小船が行っていたようである。

 仁治二年(1241年)の地震、弘長三年(1263年)の台風の時の由比ガ浜の情景が「吾妻鏡」に伺える。

【吾妻鏡】
《 仁治二年(1241年)4月 3日 辛酉 》 の条  霽。
  『戌の刻大地震。南風。由比浦の大鳥居内の拝殿潮に引かれ流失す。着岸の船十余艘破損す。』
 
《 弘長三年(1263年)8月14日 辛酉 》 の条  自朝天陰雨降。
  『朝より天陰雨降る。雷鳴数声 。  則ち南風烈しく、雨脚いよいよ甚だし。
   午の刻大風樹を抜き屋を発す。大略全き所無し。御所の西侍顛倒す。梁棟桁等これを吹き抜く。
   また由比の浜に着岸する船数十艘破損し漂没す。…』
         (和賀江島が整備された後でも台風には効し切れなかったの現今と同じである。)



《U》『吾妻鏡』において「和賀江島」の築港工事について次の記文がある。

【吾妻鏡】
《 貞永元年(1232年)7月12日 辛卯 》 の条  晴れる。
  『今日、勧進聖人 往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩ならんがために和賀江嶋を築くべきの
  由と云々。 武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまふ。諸人また助成すと云々。』

《 貞永元年(1232年)7月15日 甲午 》 の条  陰る。
  『今日、和賀江嶋を築き始む。
  平三郎左衛門尉 綱行 行き向ふと云々。』

《 貞永元年(1232年)8月 9日 丁巳 》 の条  晴れる。
  『和賀江島その功を終ふ。
  よって尾藤左近入道・平三郎左衛門尉・諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。』


《文説》
  現存するわが国最古の築港遺跡です。
西浜と呼ばれていた材木座海岸は鎌倉時代に和賀江津と呼ばれ、諸国から鎌倉に出入りする 船が着岸する浜辺であったが、遠浅で風雨が強いときには難破する船が多かったようです。
 勧進聖の往阿弥陀仏という人が築島を幕府に申請した。
 鎌倉幕府はこれを受けて貞永元年(1232)7月15日に平の盛綱の監督のもとで工事が始られ…、
 〜翌8月9日に竣工した。工事は、北条泰時をはじめ諸人の助けにより、26日間で竣工している。
 現在見られる石は、当時 相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運ばれてきたものである。
    注 ⇒ 「別記載の 『和賀江島・絵図集』を併せご覧戴きます。

《V》『吾妻鏡』において築港後の和賀江島の発展の情景について次の記文がある。

 利売の法・押買禁止等々と同時に和賀江の津の材木の寸法についの規制が「吾妻鏡」に伺える。

【吾妻鏡】
《 建長五年(1253年)10月11日 丙辰 》 の条  。
  『利売直法を定めらる。その上押買の事、同じく固く禁制せらる。…
  また和賀江津材木の事、近年不法の間、造作に用い難きに依って、その寸法を定めらる。
  所謂榑長分八尺・若くは七尺、不足せしめばこれを点定せしめ、奉行人子細を申すべきの由と。
  以下これを略す。今日六波羅に仰せ遣わさるる事有り。諸国庄保の新地頭等所務の事、
  先々の下知に任せ、非法を致すべからざるの旨と。…』

《文説》
  港が発展すると、鎌倉幕府から特権を認められた商人が座を組んで活動し始める。
  地名の「和賀」が、「材木座」に改まるのもこの頃であると推察できる。
  商売が加熱すると悪い商人が現れ、寸法の足りない材木も出回りこの不法行為を規制したものであろう。


《W》その後の和賀江島について。

この築港から元弘三年五月(1333年)までの百年、関東管領が置かれた貞和五年(1349年)から
基氏・氏満・満兼・持氏を経、宝徳二年(1450年)持氏の子成氏が古河に移るまで百年、
明応四年(1397年)小田原北条氏の世に入る45年、その二百年、とくに前半の百年間は、
和賀江築港により、多くの船舶にこの由比ガ浜に舟がかりする便宜をあたえたことだるう。