和賀江島(Wagae-Shima)の石碑文の説明


 ☆ 和賀江島の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

     「和賀」というのは、今の材木座の古い呼び名であって、此の地は むかし 竹 ・ 材木 の集散した港
   であったところから やがてその地名を 「材木座」 と言うよっになった。

   和賀江島は、その和賀の港口を守る築堤を言ったのであって、今から六百九十余年の昔
                                        《注》 ( 平成21年の現在から、777年の昔 )
   貞永元年(1232年)に、資金集めに奔走した 「往阿弥陀仏」 の申請によって、平盛綱が監督として、
   七月十五日起工〜八月七日に竣工したものである。


             大正十三年三月 建
                                        鎌 倉 町 青 年 団



(文説)
和賀江島は貞永元年(1232年)七月十五日に工事は始められ、翌月の九日に完成した。
 それ以来 鎌倉への海運はきわめて便利になった。
現在 和賀江島の管理は、極楽寺が所管し、室町、江戸時代に数回修理が行われたが、
現在は、遺跡として、その姿を見ることが出来る。
飯島崎から海上に散在する石の磯で、満潮時にはほとんど海面下に没するが、干潮時に 浜辺に立つと、
当時運ばれた青磁のかけらや銅銭等を見つけ 出すことが出来き、
当時 物資を運搬した船がにぎあっていた光景を想い浮かべることができる。


【人物紹介】
往阿弥陀仏 (おうあみだぶつ)      □□□□〜□□□□(□□□〜□□□)

往阿弥陀仏は、和賀江島を築造する前年、寛喜三年(1231年)四月、
筑前(福岡県)新宮浜の鐘ケ崎に防波堤を築いた僧。




平 盛綱 (たいらの もりつな)      □□□□〜□□□□(□□□〜□□□)

 岩手県和賀郡橘村、偵村の野馬所を守っていた地頭 和賀三郎左衛門尉
 の長男。  盛綱は材木座の古名、和賀に居宅を持っていた。
 三郎左衛門尉・左衛門入道盛阿・侍所所司として北條泰時・時房の幕府運営を
 支えた。
 藤尾景綱の後に泰時の家令かれいとなる。
 当時の地頭は、年貢米や金を納めるため、鎌倉だけでなく、京都六波羅探題
 への勤務や使役も勤めていた。
【盛綱紹介】は「かまくら情報3号」(1999 盛夏号)・「吾妻鏡必携」等による