「和賀」というのは、今の材木座の古い呼び名であって、此の地は むかし 竹 ・ 材木 の集散した港 であったところから やがてその地名を 「材木座」 と言うよっになった。 和賀江島は、その和賀の港口を守る築堤を言ったのであって、今から六百九十余年の昔 《注》 ( 平成21年の現在から、777年の昔 ) 貞永元年(1232年)に、資金集めに奔走した 「往阿弥陀仏」 の申請によって、平盛綱が監督として、 七月十五日起工〜八月七日に竣工したものである。 大正十三年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
往阿弥陀仏は、和賀江島を築造する前年、寛喜三年(1231年)四月、 筑前(福岡県)新宮浜の鐘ケ崎に防波堤を築いた僧。 |
|
岩手県和賀郡橘村、偵村の野馬所を守っていた地頭 和賀三郎左衛門尉 の長男。 盛綱は材木座の古名、和賀に居宅を持っていた。 三郎左衛門尉・左衛門入道盛阿・侍所所司として北條泰時・時房の幕府運営を 支えた。 藤尾景綱の後に泰時の家令となる。 当時の地頭は、年貢米や金を納めるため、鎌倉だけでなく、京都六波羅探題 への勤務や使役も勤めていた。 |
|
【盛綱紹介】は「かまくら情報3号」(1999 盛夏号)・「吾妻鏡必携」等による |