乱 橋 (midare-hashi)の石碑文の説明


☆ 乱 橋 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

  「 乱 橋 」は また「 濫 橋 」とも書きあらわし、「 一 石 橋 」と言う名もある。
  橋の南方に「連理の木」があって知られている。

   「東鑑」(吾妻鏡)の宝治二年(1248年)六月の記事に『十八日の午前四時の頃、
  濫橋の辺り一町(1000u)ばかりに 雪が降って、そのあたりに霜がおりた。」等とある。

   辻町と材木座との境をなす細流に架かる「逆川橋」と共に、鎌倉十橋」に挙げられている

              昭和四年三月
                                      鎌 倉 町 青 年 団


乱橋材木座みだればしざいもくざ
滑川河口の左岸一帯。北側が乱橋地区、南側が材木座地区で、両者を合わせた地名。

乱橋妙長寺門前から海岸側の所にある橋で、「乱橋」は地名として定着し、土地の人は「乱橋材木座」呼称した。

橋の規模は、川幅1.2m、幅員は約8mである。


・元禄年間(1688年〜1704年)以前は「乱橋材木座」と呼ばれていたが、以後二地区に分かれた。《風土記稿》

・寛文年中(1661年〜1773年)に乱橋地区と材木座地区に分村した。

 分村の原因は、農村中心の乱橋(岡方)と漁業中心の材木座(浜方)の利害の不一致から争いになり、

 (乱橋村の石高は、52石余・永高74貫文余、材木座村の石高は、32石余・永高10貫文余、);《「元禄郷長」による》

 分村に至った。

・明治21年(1888年)に両村は合併し、明治32年(1957年)までは大字「乱橋材木座」として復活している。

・昭和14年市制執行により、「鎌倉市乱橋材木座」となる。

・戦後の住宅表示制度の執行により、毛に財は「乱橋」は抹消されて、「材木座」と呼称する。



【連理木】
『橋ノ南ニ連理木アリ。』と《「新編鎌倉志」巻之七》にある。

連理木 (れんりぼく、れんりぎ)

連理木とは、二本の樹木の枝、あるいは一本の樹木の一旦別れた枝が
癒着結合したもの。
自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって
理(木目)が通じた様が、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰
の対象ともなっている。
なお、違う品種同士で連理となる場合もある。
『語源』
 □ 白居易の「長恨歌」
      『在天願作比翼鳥、在地願為連理枝』
      (天に在りては願わくは比翼の鳥となり、地に在りては願わくは連理の枝とならん)
                                              と『長恨歌』にある。
【連理木の紹介】は 出展;「ウィキペデア(wikipedia)」による



【往古の乱橋の欄干】


材木座にある「五所神社」の参道にある。