文治元年 (1185年)五月、源 義経 は、朝敵(平家)を滅ぼした。 ときの 敵方の総大将 前内府 平 宗盛 を 捕虜として引きつれ 鎌倉に凱旋して来た が、 頼朝の不審を蒙り、鎌倉 に入ることを 許されなかった。 腰越宿に滞留して、積もる鬱憤のあまり、 因幡 前司 大江広元 に 一通の 書状を送った ことが、「東鑑」(吾妻鏡) に記載されている。 世に言い伝えられている 『腰越状』 とは 此の時の書状のことである。 其の下書きと伝えられている物が、「満福寺」に保存されている。 昭和十六年三月 建 鎌倉市青年団 |
【「伝 腰越状は腰越・満福寺に蔵 】(「義経伝説紀行 第20号」(日経BP出版センター発行)を参照 |
【 腰 越 状 】 恐れながら申し上げ候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、 累代の弓箭の芸を顕わし会稽の恥辱を雪ぐ。抽賞を被るべきのところ、思いのほかに虎口の讒言によって、 莫大の勲功を黙止せらる。 義経 、犯すこともなくて咎を蒙り、功あって過ちなしといえども、御勘気を蒙むる ……〈中略〉…… 平家一族を追討のため上洛せしむるの手合せに、木曾義仲を誅戮するの後、平家を責め傾けんがため、 或る時は峨々たる巌石に駿馬をむちうち、敵のために命を亡くすことを顧みず、 或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め骸を大魚に喰われんことを痛まず、 甲兜を枕とし、弓箭を業となす本意は、亡父の怨みを晴らさんがためのみ ……〈中略〉…… 義経、五位の検非違使左衛門尉に補任の条、当家の面目、希代の重職、なにごとが、これに加えんや ……。 ……〈中略〉…… 我に誤りなき旨を優ぜられ、芳免に預らば、年来の愁眉を開き、一期の安寧を得んと欲す。 義 経 恐 惶 謹 言 元暦二年五月日 左 衛 門 小 尉 義 経 進 上 因 幡 前 司 (大江広元) 殿 |