義経宿陣之蹟(yochitune-shukuztin-seki)の石碑文の説明

 ☆ 義経宿陣之蹟 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

    文治元年 (1185年)五月、源 義経 は、朝敵(平家)を滅ぼした。
   ときの 敵方の総大将 前内府 平 宗盛 を 捕虜として引きつれ 鎌倉に凱旋して来た が、
   頼朝の不審を蒙り、鎌倉 に入ることを 許されなかった。

   腰越宿に滞留して、積もる鬱憤のあまり、 因幡 前司 大江広元 に 一通の 書状を送った 
   ことが、「東鑑」(吾妻鏡) に記載されている。

    世に言い伝えられている 『腰越状』 とは    此の時の書状のことである。
   其の下書きと伝えられている物が、「満福寺」に保存されている。

            昭和十六年三月 建
                                     鎌倉市青年団



義経は鎌倉に入れてもらえず。六月九日、酒匂宿に戻っていた。

その義経の許に、平 宗盛・清宗父子の身柄が送られてきた。父子を護送して京都に帰れと言うことである。

「鎌倉に対して怨みをもつ者は我に属すべし。」と言いはなって京都に向かった。

この事を知った頼朝は、すぐさま、義経の所領・二十四カ所の全てを没収した。

義経は、京都に帰る途中、近江国篠原宿(滋賀県野洲町)で宗盛を斬り、野路宿(滋賀県草津市)で清宗を

斬っている。    義経には、平家に対する恨みだけが残った。


    ⇒  【この時の義経の心情について《吾妻鏡のページ》参照】

【 伝 義経の書状 について】


 満福寺蔵の「腰越状」はこの書状の下書きであると伝承されているが、真偽は明らかでない。  以下の通り。

【「伝 腰越状は腰越・満福寺に蔵 】(「義経伝説紀行 第20号」(日経BP出版センター発行)を参照
                   【 腰   越   状 】
 (左衛門少尉) 源 義経、
   恐れながら申し上げ候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、
   累代の弓箭の芸を顕わし会稽かいけいの恥辱をそそぐ。抽賞を被るべきのところ、思いのほかに虎口の讒言によって、
   莫大の勲功を黙止せらる。 義経 、犯すこともなくて咎を蒙り、功あって過ちなしといえども、御勘気を蒙むる
   ……〈中略〉……
    平家一族を追討のため上洛せしむるの手合せに、木曾義仲を誅戮するの後、平家を責め傾けんがため、
   或る時は峨々たる巌石に駿馬をむちうち、敵のために命を亡くすことを顧みず、
   或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め骸を大魚に喰われんことを痛まず、
   甲兜を枕とし、弓箭を業となす本意は、亡父の怨みを晴らさんがためのみ 
   ……〈中略〉……
   義経、五位の検非違使左衛門尉に補任の条、当家の面目、希代の重職、なにごとが、これに加えんや ……。
   ……〈中略〉……
    我に誤りなき旨を優ぜられ、芳免に預らば、年来の愁眉を開き、一期の安寧を得んと欲す。
                                                         義 経 恐 惶 謹 言

              元暦二年五月日                   左 衛 門 小 尉 義 経

   進 上  因 幡 前 司 (大江広元)  殿