藤原俊基朝臣は、政権を王制復古を図ろうとして失敗した。 元弘二年(1332年)六月三日、 北条高時 の命によって 斬られた。 『 秋を待たで 葛原岡の 消ゆる身の うらみや世に 残るらん 』 と 詠んで、永く恨みを留めている処が、此の地である。 大正六年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 会 |
鎌倉末期の公卿。 父は大学頭 日野種範。元享3年(1323年)蔵人頭となるり、日野資朝とともに後醍醐天皇の 側近として天皇の倒幕計画に参画し、無礼講に事寄せて倒幕の密議をはかった。 然し正中元年(1324年)謀議が露見し(正中の変)、資朝とともに鎌倉に送られたが間もなく 放免さけた。 元徳3・元弘元年(1331年)、再び後醍醐天皇の倒幕計画が失敗し(元弘の変)捕らえられのち 鎌倉に送られ、翌正慶元・元弘2年(1332年)6月、鎌倉の葛原ケ岡で殺された。 墓も同所にある。 | |
【人物紹介】は 出展;「鎌倉室町人名事典」(安田元久編)による |
葛原ケ岡公園の北方に玉垣で囲まれた塚上の 宝篋印塔が、それである。 『鎌倉市史・考古編』(鎌倉の石造建造物の項)によると この墓碑は「決してもとからここににあった ものでなく、故大野秀文師(覚園寺住職)等が、 大御堂谷から適当に大きさを揃えて持って来て 建てたものであることを同師から聞いている。 寄せ集められた供養塔であることがわかる。 とはいえ、塔は基礎などの様式からいって 室町期に造られたと認められる。 塔は安山岩製。 基礎から総高113.2糎。 相輪が別石で、笠の一部が欠損し、 塔身には四方仏を表わす梵字を刻している。 出展 ; 「鎌倉国宝館図録 第22集 (三浦 勝男記)」 |