『吾妻鏡』における 木曽義仲 (kiso-yoshinaka) の記述


木曽義仲に関係する『吾妻鏡』における記述は・・・

三歳の時に信濃国の木曽に逃れ、再起の時を待つ。。

《 治承4年(1180年)9月 7日 丙辰 の条 》

    源氏の木曽冠者かじゃ義仲主は、帯刀先生たちはきせんじょうの(源)義賢の二男である。
   義賢は、去る久寿きゅうじゅ2年8月、武蔵むさし国の大倉の館で、鎌倉の悪源太あくげんた(源)義平主に打ち滅ぼされた。

   その時、義仲は3歳の幼児であった。乳母のの夫にあたる中三権守ごんのかみ兼遠は、義仲を抱いて信濃しなの国の木曽
   に逃れ、義仲を育てたる成人した今では、
武勇の素質を受け継ぎ、平氏を打つて家を興そうと考えていた。
                                                 ・・・以下省略・・・
   平家方の笠原頼直が木曽谷を襲撃したことに応戦した村山義直と栗田範覚を応援して市原(長野市)に
   出陣する。

《 治承4年(1180年)10月 13日 壬辰 の条 》

   木曽冠者義仲が亡父(源)義賢主のあとに倣い、信濃しなの国を出て上野こうずけに入った。



頼朝の権威を憚って信濃国に帰還する


《 治承4年(1180年)12月 24日 壬寅 の条 》

    木曽冠者(源)義仲が上野国を去って、信濃国に向かった。
   義仲は自立の志がある上に、上野国の多胡庄は亡父の遺領であるために入部したのであるが、
   武衛(源頼朝)の権威がすでに関東で輝いているため、帰国しょうとこの行動を取ったという。




平家の計らいによる 頼朝、義仲追悼の宣旨⇒対して義仲平家追討。

《 養和元年(1181年)8月 13日 丁巳 の条 》

    藤原秀衛は武衛ぶえい(源頼朝)を追討せよ。平(じょう)資職すけもとは木曽次郎(源)義仲を追討せよ。
   という宣旨せんじが下された。 これは平氏の計らいによるものである。


《 養和元年(1181年)9月 4日 丙丑 の条 》
    木曽冠者(源義仲)が平家を追討し上洛するために北陸道を廻った。
    その先陣の根井ねのい太郎(行親)が越前えちぜん水津すいづに至り、(平)通盛朝臣の従兵と既に合戦を始めたという。
    

《 寿永元年(1182年)9月 15日 癸未 の条 》
    木曽冠者(源)義仲主を追討するため北陸道へ発進した平氏の軍兵等が悉く京都に戻った。
    既に寒気が厳しく在国するのが難儀であるためと理由をつけていたが、実際のところは義仲の
    武略を恐れたためだという


【平家合戦】


・ 寿永2年(1183年)4月 平維盛を総師とする義仲追討軍が京都を出立。火打合戦(福井県今庄)では劣勢と

  なるも、5月9日の般若野合戦(富山県高岡市)では勝利をおさめ

・ 5月11日の倶利伽羅峠(富山県小矢部市)で大勝をおさめる。

  その後、篠原合戦(石川県加賀市)で勝利を決定づけると、

・ 同年7月28日 5万の兵を率いて入京した。


【義仲征夷大将軍に就任】


・ 入京後、義仲は、後白河法皇より伊予守に任じられ、京中の狼藉停止を命ぜられる

・ 義仲が以仁王の子 北陸宮を皇位に推挙したことから、法皇と義仲との関係が悪化する。

・ 法皇が、西国の平氏追討を義仲に命じ、義仲の出陣中に、頼朝に寿永2年の宣旨を下し

  東国の支配権を認めた。

・ 同年閏10月帰京した義仲は、法性寺合戦で実権を掌握すると、法皇に頼朝追討の院宣を強要、

  征夷大将軍に就任した。     《(鏡)寿永3年1月8日条》



後白河法皇、頼朝に義仲追討を命じる

   ・・・義仲、近江国粟津附近で誅殺される・・・

《 寿永3年(1184年)正月 20日 庚戌 の条 》

   蒲冠者かばのかじゃ(源)範頼と源九郎義経が武衛ぶえい(源頼朝)の御使として、数万騎を率いて入京した。
   これは(源)義仲を追討するためである。
   範頼は勢多から入京し、義経は宇治路から入京した。
   木曽(源義仲)は三郎先生せんじょう(源)義広・今井四郎兼平をはしめとする武士たちを勢多せた・宇治の両道に派遣し
   て防戦させたが、全敗した。
   範頼・義経は、河越太郎重頼・同小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原

   源太景季らを率い、六条殿に急いで参上し、仙洞せんとう(後白河)の御所を警固申し上げた。
   この間、一条次郎忠頼以下の勇士は競って方々て戦い、ついに近江国粟津あわづ附近で、相模国の住人石田
   次郎により義仲は誅殺された。 その他の錦織にしこり半官(源義広)らは逃亡したという。
   
       征夷大将軍じゅ四位下行伊予ぎょういよ守源朝臣義仲(年三十一)  春宮帯刀長とうぐうのたちはきのおさ(源)義賢のむすこ

             寿永2年8月10日 左馬頭兼越後守に任官し、従五位下に叙せられた。
             同年16日 伊予守に転任した。
             12月10日 左馬頭を辞任した。  同13日 従五位上に叙せられた。 また正五位下に叙せられた。

             元暦元年正月6日従四位下に叙せられた。  10日征夷大将軍に任ぜられた。
             
                                                 ・・・以下省略・・・



義仲の首、七条河原において獄門の前の樹に懸けられる

《 寿永3年(1184年)正月 26日 丙辰 の条 》

   晴。今朝、検非違使けびいしが七条河原において、伊予いよ守(源)義仲及び(高梨)忠直・(今井)兼平・(根井)行親らの
   首を請け取り、獄門の前の樹に懸けた。また囚人の(樋口)兼光も同時に連行され、(検非違使)に渡された。
   (担当の)上郷しょうけいは藤中納言(藤原頼実)、職事しきじ頭弁とうのべん(藤原)光雅朝臣であったという。