源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生の(源)義賢の二男である。 義賢は、去る久寿2年8月、武蔵国の大倉の館で、鎌倉の悪源太(源)義平主に打ち滅ぼされた。 その時、義仲は3歳の幼児であった。乳母のの夫にあたる中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽 に逃れ、義仲を育てたる成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を打つて家を興そうと考えていた。 ・・・以下省略・・・ 平家方の笠原頼直が木曽谷を襲撃したことに応戦した村山義直と栗田範覚を応援して市原(長野市)に 出陣する。 木曽冠者義仲が亡父(源)義賢主のあとに倣い、信濃国を出て上野国に入った。 |
木曽冠者(源)義仲が上野国を去って、信濃国に向かった。 義仲は自立の志がある上に、上野国の多胡庄は亡父の遺領であるために入部したのであるが、 武衛(源頼朝)の権威がすでに関東で輝いているため、帰国しょうとこの行動を取ったという。 |
藤原秀衛は武衛(源頼朝)を追討せよ。平(城)資職は木曽次郎(源)義仲を追討せよ。 という宣旨が下された。 これは平氏の計らいによるものである。 木曽冠者(源義仲)が平家を追討し上洛するために北陸道を廻った。 その先陣の根井太郎(行親)が越前国水津に至り、(平)通盛朝臣の従兵と既に合戦を始めたという。 木曽冠者(源)義仲主を追討するため北陸道へ発進した平氏の軍兵等が悉く京都に戻った。 既に寒気が厳しく在国するのが難儀であるためと理由をつけていたが、実際のところは義仲の 武略を恐れたためだという |
蒲冠者(源)範頼と源九郎義経が武衛(源頼朝)の御使として、数万騎を率いて入京した。 これは(源)義仲を追討するためである。 範頼は勢多から入京し、義経は宇治路から入京した。 木曽(源義仲)は三郎先生(源)義広・今井四郎兼平をはしめとする武士たちを勢多・宇治の両道に派遣し て防戦させたが、全敗した。 範頼・義経は、河越太郎重頼・同小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原 源太景季らを率い、六条殿に急いで参上し、仙洞(後白河)の御所を警固申し上げた。 この間、一条次郎忠頼以下の勇士は競って方々て戦い、ついに近江国粟津附近で、相模国の住人石田 次郎により義仲は誅殺された。 その他の錦織半官(源義広)らは逃亡したという。 征夷大将軍従四位下行伊予守源朝臣義仲(年三十一) 春宮帯刀長(源)義賢の男 寿永2年8月10日 左馬頭兼越後守に任官し、従五位下に叙せられた。 同年16日 伊予守に転任した。 12月10日 左馬頭を辞任した。 同13日 従五位上に叙せられた。 また正五位下に叙せられた。 元暦元年正月6日従四位下に叙せられた。 10日征夷大将軍に任ぜられた。 ・・・以下省略・・・ |
晴。今朝、検非違使が七条河原において、伊予守(源)義仲及び(高梨)忠直・(今井)兼平・(根井)行親らの 首を請け取り、獄門の前の樹に懸けた。また囚人の(樋口)兼光も同時に連行され、(検非違使)に渡された。 (担当の)上郷は藤中納言(藤原頼実)、職事は頭弁(藤原)光雅朝臣であったという。 |