(清水冠者)義孝 は 源 義仲 の長男である。 義仲 は、かって 源 頼朝 から悪い感情を抱かれて 兵を向けられ、まさに戦いになる寸前に、 わが子の「義孝」を人質として、鎌倉に送り 頼朝と和解する事が出来た。 それ以来 義孝 は 鎌倉の 頼朝 もとで養われる 身となり、頼朝の娘(大姫)を妻とすることになつた。 その後、 義仲は 頼朝方の義経・範頼らに攻められ、近江の国 栗津の松原にて討死した。 ここに及び 義孝 身の危険を感じ、密かに鎌倉を脱出したのだが、武蔵(埼玉県)入間川の辺で捕らわれて、 誅殺された。 義孝の塚 は、此の碑の建立の西南約200mのところ、木曾免 という地の田んぼのにあったが、 延宝年間(1673年〜1681年)に、此処の地に移設したと言う。 旭将軍 木曾義仲 の 烈しく豪快な短い生涯(享年三十一歳)であったその余韻をうけついで、 不運の運命に翻弄された薄命(享年十一歳)な貴公子 義孝 の首は、此処の地に葬られ、永遠に眠っている。 大正十五年一月 鎌 倉 同 人 会 建 |
平安末期の武士。源 義仲。源 義賢の次男。木曾冠者。 久寿二年(1155年)八月、父 義賢 は、武蔵国大蔵の館において、源 義平 によって討たれ、二歳の義仲は、乳母の 仲原兼遠とともに信濃国木曾に遁れ、 再起の時を待った。 (《吾妻鏡》治承4.9.7条) 義仲は 治承四年(1180年)以仁王の令旨をうける。 同年九月四日、平家方の笠原頼直が木曾谷を襲撃したことに応戦した村山義直と 栗田範覚を応援して市原(長野県)に出陣する。十月、上野国に進軍する。 十二月には、頼朝の権威を憚って信濃国に帰還する。 |
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九月には、 平 通盛軍を水津(福井県敦賀市)で破る。木曾義仲を追討するために北陸道に発向していた平家の 軍兵は、寒気を理由に京都に帰還する。 (《吾妻鏡》寿永元年.9.15条) 寿永二年(1183年)四月、平 維盛 を総師とする義仲追討軍が、京都を出立。火打合戦(福井県今庄町)では、 劣勢となるも、五月九日の般若野合戦(富山県高岡)では勝利をおさめ、五月十一日倶利伽羅峠(富山県小矢部市) で大勝利をおさめる。その後、篠原合戦(石川県加賀市)で勝利を決定つけると、同年七月二十八日 五万の兵を 率いて入京した。入京後、義仲は、後白河法皇より伊予守に任ぜられ、京中の狼藉停止を命じられるが、 義仲が、以仁王の子北陸宮を皇位に推挙したことから、法皇と義仲との関係が悪化する。 法皇が西国の平家追討を義仲に命じ、義仲の出陣中に、頼朝に寿永二年の宣旨を下し東国の支配権を認めた。 同年閏十月帰京した義仲は、法往寺合戦で実権を掌握すると、法皇に頼朝追討の院宣を強要、征夷大将軍にも 就任する。 しかし、すでに法皇は、頼朝に義仲追討を命じ、源 範頼・源 義経等が、数万騎を率いて翌年 一月入洛する。義仲軍は敗北し、近江国栗津の辺において相模国住人 石田次郎 に殺害される。 (《吾妻鏡》元暦元年.1.20条)享年三十一歳。 七条河原において 義仲 並びに 高梨忠直 ・ 今井兼平 ・ 根井行親 等の首が、獄門の前の木に懸け られたという。 (《吾妻鏡》寿永三年.1.26条) |
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【人物紹介】は 出展;「吾妻鏡事典」(佐藤和彦・谷口 栄 編者)による |