◇【T】◇ 大仏坂切通し-国史跡指定の範囲

◇【U】◇ 大仏坂切通し-地形改変の推移
◇【T】◇ 大仏坂切通し-国史跡指定の範囲
  大佛切通は鶴岡八幡宮の西南2.2Kmの山稜上にある。

  海抜70m前後で続く尾根筋(鎌倉城外郭線)を切って作られている。

  現状での道筋は大佛隧道の上から「常盤火の見下」バス停附近の山端に至る約1Kmの尾根上を

  主要地方道路、藤沢-鎌倉線の北側に沿って通じており、切通状になっている部分の総延長は、

  おおよそ120m、尾根の岩盤を深さ7〜8mに切り割った狭い道筋はいまだ中世を彷彿とさせる。


  【指定理由】
   大仏切通は、鎌倉の西南部、極楽寺切通の北方1キロメートルの所にある。常磐を経て藤沢に出る要路で高い山稜を切り
   割った道はよく旧態をとどめており、鎌倉七口の一つとして古来著名である。     (現地調査実施は、昭和43年2月)

◇◇【U】◇ 大仏坂切通し-地形改変の推移
◇【開墾の時期】  大佛坂開墾の時期は未詳であるが、「朝夷奈切通」や「巨福呂坂」が整備された

  仁治元年(1240年)から建仁二年(1250年)頃と考えられている。


◇【第一期】     明治12年〜13年;この時期の大佛切通の改修で、道筋五町(約545m)に

            わたって両側の崖を三丈(約9m)削り2台の車が通れるように成った

                    《石碑『重修大佛坂記』(高徳院前に建立)。


『重修大佛坂記石碑』写真   【石碑の文章】 (石碑文は縦書)

 鎌倉之為地、 南瀬海環、 東西北皆山也、 有七路、
 鑿山通之、 其西北之路曰大仏坂、 最険且隘、 負、
 擔過之者不数歩、 而口喘背汗矣、 郷父老三橋、 
 小左衛門、 矢沢小左衛門、 徳増七三郎等、二十
 余名相謀募金修之、 官嘉其志、 賜以金百円、明
 治巳卯(12年)夏五月、 興役至庚辰(13年)春三月竣功、凡五
 町之間削両崖三丈、 畳石以防崩壊、 而得平坦
 者八十余歩、 広可容二軌、用工二千三百五十
 余人、資金一千余円、 昔之口喘而背汗者、 今則
 謳歌而過焉、
 衆皆徳之夫施恵、 於人者金帛為、
 小修道路、 為大以其治□干久遠也、 小左衛門等、
 二十余人能択、 其大者率先成功可謂偉矣、 余、
 乃記、其事以勤石郷人之志也、
   明治十四年五月      阿波 伊藤士龍撰並書 印印





上記の重修大佛坂記石碑が建立されている

鎌倉大仏前の状況写真を

写真スライドをご覧下さい

◇【第二期】     明治45年;大仏隧道 (大仏坂トンネルと新道) が完成た。

            藤沢方面への往来至便となった代わりに鎌倉側旧道は分断された。



◇【第三期】     昭和33年;切通南側に神奈川県水道局の長谷配水池が掘られ

            山稜上の地形が大きく削られた。



◇【第四期】     昭和45年;北側の鎌倉常磐分譲地の造成では、約10ヘクタールの山林と

            谷が整地され仲の坂と東坂が消滅した。