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鎌倉・七切通し
鎌倉は三方山に囲まれている。
山を切り開いて他所へ道路を通したのを「切通し(きりどおし)」と言う。
古くから「鎌倉七口」あるいは「七切通し」と言われている。
『極楽寺切通』・『大仏切通』・『仮粧坂』・『亀ケ谷坂』・巨福呂坂』・『朝夷奈切通』・『名越切通』である。


七切通しについて


『極楽寺切通』  (ごくらくじ きりどおし)
  この切通は、稲村ガ崎・七里ケ浜・腰越を経て東海道に至る。
  鎌倉から京都に通ずる最も重要な通路として使われている。
  極楽寺の《忍性》が開いたと言われている。
  現在の稲村ガ崎の海岸道は、昭和二十年に切り通しができ、三十一年に全通した。


『大仏切通』  (だいぶつ きりどおし)
  いまの大仏坂トンネルの上を通り、梶原、山崎を経て藤沢へ、また津・腰越にも通じる。
  古くは「深沢切通し」とも呼ばれた。
  現在のトンネルは、明治四十年頃に開かれた。

『仮粧坂』  (けわい さか) (『化粧坂』とも書く)
  此の坂から梶原を経て藤沢に通じる。
  京都から鎌倉、関東北部から鎌倉に入る幹線道路…「武蔵大路」の要所であつたと言う説もあるが、不明。
  昔 色里がこの辺りにあったことからこの名が生じたと言われている。
  新田義貞の鎌倉攻めで、義貞は三手に分けた一軍を化粧坂に向け、幕府軍を破って鎌倉に突入した道である。
  (国の史跡指定)

『亀ケ谷坂』  (かめがやつ さか)
  扇ケ谷と山ノ内地区を結び、武蔵方面に通ずる重要な道である。
  亀が登って途中から引返してきたことから、「亀返り坂」と言われた。
  (国の史跡指定)

『巨福呂坂』  (こぶくろ さか)
  山ノ内を経て大船又は藤沢に通じる。   仁冶元年(1240年)10月に山ノ内の道路が修治された史料があるが、
  いまの巨福呂坂ではない。
  この道は八幡宮裏参道門の少し南から西の山へ登る道であったが、
  いま峠付近が個人の住宅なので通り抜けは出来ない。


『朝夷奈切通』  (あさいな きりどおし)
  鎌倉と六浦を結ぶ重要な道である。
  仁冶元年(1240年)11月に鎌倉幕府によって企画とれ、建長二年(1250年)6月にも道路整備が命じられた。
  旧道(切通し)はその南側の谷戸に残り、昼でも陽がとどかず薄暗く、星霜の縞模様を刻んだ岸壁が往時情景
  が偲ばれ、七切通しの中、最もよく旧状を止めていると思われる。
  現在の朝比奈峠を越ええる道は昭和三十一年に出来たものである。
  (国の史跡指定)

『名越切通』  (なごえ きりどおし)
  旧道は横須賀線のトンネルの上にある。
  鎌倉から三浦に通ずる重要な道である。
  (国の史跡指定)



七切通しの所在地

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