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@『棟立ノ井』(むなたてのい)
… 覚園寺境内 …
覚園寺の薬師堂の裏の山際にある。 (非公開) 清水が家屋の棟立(破風)の形をした石下から湧きでているのでこう名付けられた。 (「破風(はふ)ノ井」とも呼ばれている。) 弘法大師が此の地に滞在した時井戸を掘り、ここから閼伽水(仏に奉仕する水)を汲んだという言い伝えがある。 現在は、昭和36年(1961年)の山崩れで土中に埋もれ、棟形の一部しか確認出来ない。 (注)『二階堂覚園寺の山の上にある』の説…《「鎌倉」渡辺保著 》…もある。 A『瓶ノ井』(つるべのい又はかめのい) 明月院境内 … 明月院の境内の宗猷堂(そうゆうどう)の右横にある。岩を掘り貫いて作ったとみられる。く 現在も明月院の庭水などに使われている。 別名、「甕ノ井(かめのい)」とも言われている。 (注) ・宗猷堂…文永5年〜6年(1263〜1269)頃 北条時頼の子の時宗が蘭渓道隆を開山として最明寺跡に禅興寺を建立、 明月院は、この塔頭として、上杉憲方が、蜜室守厳を開山に建立とた。宗猷堂に蜜室守厳像が安置されている。 宗猷堂は、禅興寺八世の玉陰英よの勅謚号宗猷大禅師からきている。 ・十辺舎一九は、道中記に狂歌を紹介している。 『禅宋の明月院の後ろには、これ万歳の亀の井もあり』 B『甘露ノ井』(かんろのい) … 浄智寺境内 … 浄智寺総門の手前の古い鎌倉石で出来た橋の架かった池の左側にある。 …《 こども風土記 》 甘露と言われるほど蜜のように甘く不老不死の効能があると言われていたことからこの名が付いた。 頼朝がこの井に貫高を寄付したことがあると伝わる。 (注) ・江戸時代後期」《鎌倉撹勝考》「『山ノ内浄智寺境内開山堂の後ろにある、又は門外の左の道端に湧き出る清水を称したという』説 《「鎌倉」渡辺保著 》 ・ここは、良い水がでたので、大正時代には、この水でラムネ作りが行われてと言う。 ・明治30年出版《鎌倉江の島名所図会》は、井戸は民家に、甘露水は門前にあるとする。 名所は何回も移動を重ね?、現在は前述の通り門前の左側、池の奥側にある。飲むことは出来ない。 C『鉄ノ井』(くろがねのい) … 巨福呂坂下 (鶴岡八幡宮三の鳥居路西南の角) … 八幡宮・三の鳥居前より建長寺方面に進み、小町通りとの交差点の南側角にある。 井戸の傍らにクロガネモチの木が植えられている。 かってこの井戸から鉄観音が掘り出されたことに由来して名付けられた。 明治6年(1873年)までは、向かい側に観音像の頭を安置した鉄観音堂があったが、 明治の廃物毀釈で取り壊すされ、そののち、観音像の頭は、現在東京・人形町の大観音寺 に移されて同寺の本尊となった。 この像はもと、新清水寺(扇ケ谷)のものであると伝わる。 D『泉ノ井』(いずみのい) … 扇ケ谷二丁目・泉ケ谷 (浄光明寺門前先東側) … 泉ケ谷 浄光明寺を出て左に100m進んだ左側にある。 現在も綺麗な水をたたえている。 この井戸の名前をとってこの辺りを「泉ケ谷(いずみがやつ)」と呼んでいる。 さらにこの細い道を進んて行き山を越えると鶴岡八幡宮の脇に出る。 E『扇ノ井』(おうぎのい) … 扇ケ谷三丁目・扇ケ谷 本田邸内 … 扇ケ谷、岩船地蔵堂を東方・鎌倉駅方向に進み、小さな小道を左折した左側の民家(本田邸)の庭にある。 井戸の形が、扇を開いた(地紙)の形に掘られた珍しい形をした井戸である。 (非公開) 名の由来は、井戸形が開扇状である為、或いは 「扇ケ谷」の谷戸にある為、と云われている。 源 義経の妾静御前が、舞扇を納めたため、また山の上で舞っている時扇を落とし、落ちた所を掘ると水が 湧き出たなどとも云われている。 「扇ノ井」の銘のある板碑が本田家にあると聞く。井戸は今も打ち水に使われている。 F『底脱ノ井』(そこぬけのい) … 海蔵寺山門前 … 江戸初期の《新編鎌倉誌》では扇ケ谷、海蔵寺の山門の右手前にある。江戸中・後期の古絵図では左に描かれている。 (安永3年(1774年)から7年間の寺敷地形築立の際、それを埋めて、左側に移した 昭和33年(1958年)、再びもとの位置に戻した。) 1.(鎌倉時代)安達泰盛の娘・無着如大(幼名を千代能・金沢顕時の室)がこの井戸から水を汲んだ頭に掲げた時、 桶の底が抜けて、詠んだ『千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば月もやどらじ』と歌ったことによる。 2.また(室町時代)上杉氏の尼になり、修行していた時のこと、 夕飯の支度に水を汲むと水桶の底が抜け、 それが転機で心の迷いが解け悟りが開けた…その時歌った 『賤(しず)の女が いただく桶の 底脱けて ひた身にかかる 有明の月』に由来してこの名付けられたとも 言い伝えられている。 G『星ノ井』(ほしのい) … 長谷・坂ノ下 虚空蔵堂前 … 極楽寺坂の中程の虚空蔵堂へ登る石段の下、東側にある。 昔は、此の辺り暗らかったので、「星月ケ谷」と名づけられた。 又、昼間でも井戸の中に星影が映り見えので、「星月夜ノ井」とも「星月ノ井」とも呼ばれた。 鎌倉の歌枕「星月夜」は、此の谷の名である星月夜ケ谷からきていると云われている。 道端にあるが、現在は細竹を編んだ蓋があり、中見えず・水飲めず…、往古の旅人は、極楽寺坂を越え鎌倉入り して、昼でも暗い山深い所で井戸を覗くと星影が輝いていた、この水を飲んでひと休みしたことでしょう。 昭和初期まで…この井の水は、コップ一杯、一、二銭で旅人に売られていたとしう。 慶長5年(1600年)6月…徳川家康が、京都からの帰途、この井を訪れたという記録もある。 H『銚子ノ井』(ちょうしのい) … 長勝寺バス停附近 … 名越の長勝寺の前、バス通りを横断して名越トンネルへ約50m進すみ民家の間の路地を入った右側にある。 井戸側は石で、全体の形は長柄の銚子の型で、蓋は六枚の花弁に似た形をいる。 「鎌倉志」には、…「長勝寺境内に岩を切抜いた井戸である」と記されている。 井戸の蓋や側面が石造りになっているので、「石ノ井」とも言われている。 I『六角ノ井』(ろっかくのい) … 小坪・飯島附近 … 材木座から小坪に抜ける海岸の道端にある。 井戸側は八角の型の石で作られている。うち六角が鎌倉市分(二角は小坪文)にあるので、「六角ノ井」 と呼ばれている。 鎮西八郎為朝の伝説により「矢の根ノ井」とも呼ばれている。 源 為朝(義朝の弟)は、1156年(保元元年)の保元の乱で敗れ、二度と弓を引けないように腕の筋を切られたあと、 伊豆の大島に流された。ある日、為朝は自分の弓の力を試したくて2〜3mの大弓を引いて、 大島から鎌倉・光明寺の裏山の天照山めがけて大矢を放ったところ、この井戸に矢が落ちたという伝説…) この井戸に今でも矢の根「鏃(やじり)」(鏃の長さは4、5寸程)が井戸の中にあり、 村人が、この「やじり」を取り出して住吉神社に納めたところ井戸が涸れたので、又もとに戻すと水が湧きでた という。 《新編相模国風土記稿》。 戦前は毎年井戸替えの際、鏃の入った竹筒を取り替えていたが、それを怠った年は悪い病がはやったと云う。 《としよりのはなし(鎌倉市教育委員会)》。
【鎌倉十井】は ; 「鎌倉事典」(白井永二編)、「鎌倉十井の研究(鎌倉第13号)」(貫祥子著)、 「鎌倉」(渡辺保著)等を参照する
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