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鎌倉五名水タイトル



鎌倉市内は、十井五名水があると言う。
鎌倉の市中は概して水質が良くないと言われている。美味しい水と聞けば遠くからでも汲みに来たという。
【 鎌 倉 五 名 水 】  (かまくら ご めいすい)   を紹介します。

『 不 老 水ふろうすい 』・『 金 竜 水きんりゅうすい 』・『 銭 洗 水ぜにあらいみず 』・『 日 蓮 乞 水にちれんこいみず 』・『 梶 原 太 刀 洗 水かじわらたちあらいみず 』 である。
     『 不 老 水ふろうすい 』 に替えて 『 甘 露 水かんろみず 』 を加える説もある。



鎌倉五名水について


     『 不 老 水 』   … 鎌倉学園野球グランドネット裏 …
  建長寺境内を半僧坊に行く途中、喫茶店の先を左へ折れ、鎌倉学園体育部寄宿舎裏のグランドのバックネットの
  裏に不老水が湧出している。
  現在は立ち入り禁止、笹や雑草が生い茂っている。
  「新編鎌倉志」の古絵図には、不老水と仙人澤が描かれている。
  「鎌倉攬勝考」によれば、「昔異人此水を呑て容貌の替らさりしというより、仙人水又は仙池と唱えしといふ。
  其傍に仙人澤と異人の晒し所あり」と記載されている。


     『 金 竜 水 』   … 建 長 寺 門 前 …
   建長寺より北鎌倉に向かう門外、信号の所に、一辺が1bの井戸枠の名残りとして、
  九つの正方形のコンクリート板が敷かれ、その位置が示されている。
  1953年(昭和28年)頃、巨福呂坂道路拡張工事の際埋められたという。
  「新編鎌倉志」には古絵図付きで、「西の外門の前に有り」とある。
  「新編相模国風土記稿」には「西門の前小流の傍にあり」と記載されている。
   徳川光圀の『鎌倉日記』に「門前ノ池ハ金龍水ト云名水也」とあり、
  宝永六年(1709)の「建長寺境内絵図」にこの泉は描かれている。


     『 銭 洗 水 』   … 銭 洗 弁 天 …
    佐助ケ谷源氏山の山腹にある銭洗弁財天宇賀福神社の岩窟に湧き出る清水。
  (1)頼朝は、相次ぐ天災に悩む人民を愁い、日夜神仏の加護を祈願した。
    その結果、文治元年(1185年)巳年巳月巳日の夜半夢枕に宇賀福神のお告げを聞き受ける。
   「之より西北方に谷あり、境域清浄にして神泉あり。岩間より湧き出す。
    此れを汲み来て断えず城中にて用いよ」…頼朝このお告げに従うと、世が治まったと言う。
  (2)北条時頼は、頼朝に習って正嘉元年(1257)巳年中秋、この隠里を訪れ、万民の福徳を願い、
    此の水で金銭を清めると不浄塵垢が消え、清浄の福銭となる。
    一家繁盛・子孫長久を祈願することを人々に勧めた。……これが銭洗いの起こりと伝えられている。
   「鎌倉攬勝考」によれば、「土人いふ、昔福人此清水にて銭を洗う…土人隠れ里と言う…。」
   此の弁天が賑わいをみせた来たのは、維新後、明治10年代から20年代初期、昭和以後盛んになつたと言う。
   弁天の本躰「宇賀福神」は岩窟不動尊の在る加茂家が管理している。
   「宇賀福神」…約50cmの木製坐像・頭上に人頭蛇体の福神を戴き、光背に金銭を象った物を付けた
   八手弁天である。


     『 日 蓮 乞 水 』   … 名 越 …
   名越旧街道(横須賀線名越踏切)を逗子方面に向かって100b進んだ所にある。
  垣根に囲まれ所に「南無妙法蓮華経 日蓮」の1.5bの石碑がその遺跡であることを物語る。
  1960年代は、炊事ように此の水を利用していた、70年代には金魚の泳ぐのが見られたと
  いうが、現在枯れてしまっている。
  「新編鎌倉志」には、建長5年(1253年)5月 日蓮、安房国より鎌倉に出給う時、此の坂・旧名越切通にて
  水を求められしに、此水俄に涌出けると也。水斗升に過ざれども、大旱魃にも涸ずと云う。甚冷水也。とある。


     『 梶 原 太 刀 洗 水 』   …  朝 夷 奈 切 通 …
   十二所バス停留場から滑川に沿って旧朝夷奈切通へ赴く途中、左側に小さな祠と太刀洗川から湧き出す
  清水がある。これが、梶原景時が千葉上総介廣常をだまし討ちとった後、その太刀の血のりを洗ったと伝える
  「梶原太刀洗水」である。
  
  ◇千葉廣常(?〜1183)は、寿永二年(1183)12月12日 梶原景時と双六(現在の将棋)をしている中、景時
   と天野遠景に謀殺された。《愚管抄》
   元暦元年(1184)正月、上総国一宮に頼朝の祈願成就の願文を捧げていたことから、廣常の無罪が判明。
   頼朝は殺したことを後悔する。《『吾妻鏡』元暦元年正月17日の条に以下の記載がある;現代語訳》
   「藤原邦通(昌寛)と上総一宮神主・兼重が、広常の甲をもって一宮から鎌倉に帰参した。頼朝は、小桜皮威
   の甲をご覧になった。一通の封書が甲の前胴と後胴を結ぶ紐に結び付けられていた。頼朝これを開かれた。
   頼朝の御運を祈る祈願書であった。広常が邪な企てなど抱いていなかつたことが明らかになった。
   頼朝は誅罰したことを後悔したが、今となつては仕方ないことで、広常の冥福を祈るばかりである。
   天羽庄司直胤・相馬九郎常清らは広常の縁坐によって囚人となっていたが、許された」と言う。
    「新編鎌倉志」には、この近くに「上総介石塔」がある と記す。

     『 甘 露 水 』   … 浄 智 寺 門 前 …
   浄智寺門前、左側に 一辺64.5cmの石組が甘露水の名残でにある。
  現在溜まっているのは、雨水で、湧き水ではない。
  甘露ノ井の管理人が、井の水をよくしょうと思って掘り下げた後、水路が変わり、この水は涸れてしまった。




鎌倉五名水の所在地

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不老水 金竜水 銭洗水 日蓮乞水 梶原太刀洗水


 鎌倉五名水・四季 風景写真

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【不老水・風景】
【金竜水・風景】
【銭洗水・風景】
【日蓮乞水・風景】
【梶原太刀洗水・風景】