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【建立の場所】
周囲が約2.0mの 石柱に歌が刻まれている。 |
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『此の歌碑の和歌は、後鳥羽上皇に対し奉り、実朝公が勅答に替えて上りし和歌にして 昭和17年8月9日公の第七百五十回の誕辰に際し、その至心純粋の志操顕彰の為め、 鎌倉文化連盟の人々之を石に刻みて建設し、以て永遠に伝えむとす。 因みに此の碑石は去る大正12年の関東大震災の際折損せし当第二華表の柱石なり。 尚碑石の周囲に植栽せる草木は、公の金槐集の和歌に詠まれたものを選んで植え付け、 以て公の諷詠を偲ぶ縁とせり』と記載されております。 (詩情) 後鳥羽上皇の御手紙を頂戴した時の歌 「山が裂け崩れ、海は干あがってしまうような劇変の世がやってこようとも、 この私が上皇様を裏切るようなことは絶対にありません。絶対に。」 ・・・実朝はこの時期、和田合戦を経験した。さらに、その直後に鎌倉を襲った大地震で現実に「山が裂ける」のを見た。 たとえそうなったとしても、後鳥羽院に対する忠誠は変わりませんと強く訴えたのである。 大げさな表現であるが、実朝の本心を示したものであることは確かであろう ・・・ 《三木麻子解説参照》 後鳥羽院の『御書』がいつの時のことかに関して、三木麻子氏は「源実朝(笠間書院)98頁」でこう述べられます。 1) 建暦3年(1213年)2月、実朝が閑院内裏の造営を援助した恩賞として正二位に叙せられた時点で実朝の態度をよしとして、 実朝を慰問する後鳥羽院から送られてきた手紙に感激して詠んだとするもの。 2) 建暦3年(1213年)8月18日、実朝が御所の南面で和歌数種を独吟した時の歌とする説、・・・『吾妻鏡』 5月2日と3日、鎌倉に和田合戦が起こり、御所まで炎上した。 実朝は、9日にはその鎮定を知らせる将軍教書を在京の御家人に送り、院御所の守護に専念するように伝えている。 藤原定家の『明月記』によると、8月に入って鎌倉滅亡という噂が広がったが、和歌文書を依頼する実朝の手紙で、これが誤りであった と知った定家は17日、和歌文書を実朝に届けたが、その時に院の見舞いの御書も添えられていた。この院の見舞いに応えるために、 翌18日、独吟を詠んだのではないかとするもの。 3) 後鳥羽院から、幕府の態度を詰問する手紙が送られたために、実朝は院への恭順の心を読んだとするもの・・・《片野達郎氏説》 実朝が15歳(建永元年(1206年))の時、後鳥羽院は地頭職の停廃を提案したが、幕府は頼朝恩賞の地という既得権を理由にこれを 拒否し、この辺りから公武の軋轢が表面化し始めた。 これ以降、実朝が崇拝の対象とした後鳥羽院と幕府の利害が一致することはなかった。院が詰問状を送る可能性はあったというのである。 三木麻子氏は成長した実朝が鎌倉と後鳥羽院の間で苦悩しつつ、なお院への敬愛の真意を伝えようとしたのだとしたら、その時期はやはり 建暦3年の和田合戦をくぐり抜けた時点しか、「金槐和歌集」の末尾を飾る三首を含めこの歌を詠む機会はなかったろう、と解しています。 『金槐和歌集』の最後を飾る歌。上記の歌の前に並ぶ2首。 "大君の勅を恐み千々わくに心はわくとも人に言はめやも" "東の国に我がをれば朝日さす藐姑射の山の影となりにや" (2) 鎌倉国宝館 の右手の道路に建立の歌碑 鎌倉国宝館の右側道路(流鏑馬馬場)の一段高くなったところに「実朝桜」が植えられている。 「実朝桜」の標柱に歌は刻まれている。 (春山の月) 風騒ぐをちの戸山に雲晴れて 桜にくもる春の夜の月 (詩情) 「風のざわつく遠くの外山(人里に近い山)の上空は快晴だ。春の夜の月がよく見えてもよさそうなりに、、 桜の落花のせいで曇ってしまっている。」 ☆ ここに植栽されている桜は、実朝首塚のある秦野市の人々から鎌倉市に贈られたものである。 |
【建立の場所】
幅が約0.7m 、 厚さ0.2mである。 |
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(詩情) 「箱根の山道を越えてくると、急に視界が開け、広々とした伊豆の海の沖の小島(熱海市東方にある初島)に、 波の打ち寄せているのが手に取るように見える。」 川田 順 … 箱根の山を越えつつ蒼い海をのぞみ、初島に寄せる一点にこころを向けたこの歌は、 格調高くまた荘厳な音楽のように快い。 加茂真淵 … 『万葉集』の原歌よりよい歌とほめている。 斉藤茂吉 … 『金槐集』中第一級の歌であると。 小林秀雄 … 実朝を無常なる人としてとりあげている。大きく開けた伊豆の海、中にはるかに見える島、 その先に小さく白い波が寄せている。またその向こうに自分の心の形が見えてくる。 このように純粋で秀抜な叙景があらわすものは、実朝のみつ才能と、自分がおかれてた 立場のなかで、やかてくる宿命が動かすことができないことを暗示しているように思われて ならない。「わたしはこの歌を悲しい歌と読む」といっている。 《「この歌の色々な観賞」は「右大臣源実朝の生涯」(藤谷益雄著)185頁参照》
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鎌倉文学館正門を入り本館に向かう、和歌は『招鶴洞』の手前、左側の外灯柱に貼られた銅版に刻まれている。 | ||
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【建立の場所】
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(詩情) (荒磯に波の寄るを見てよめる) 「磯もとどろくほどに寄せる大海の荒波は、 割れて砕けて、裂けてそして四方に飛び散ってゆく。」 ・・・大海がそのまま岩石に切り取られたような荒磯に波がうち寄せる。その波が岩に当って砕け散り、またそれを永遠に繰り返している。 実朝が到達した風景表現の極致である。 実朝の孤独感であったり、憂悶、虚無、悲しみの影が漂っている。 ・・・ 《鎌田五郎解説参照》 (『万葉集』の歌句を用いている) 『 伊勢の海の磯もとどろに寄する波 恐き人に恋ひ渡るかも 』 (万葉集・巻4・600 ・笠女郎) 『 聞きしより物を思へば 我が胸は割れて砕けて利心ものなし 』 (万葉集・巻12・2 8 9 4・作者未詳) |
◇ 鎌倉海浜公園の歌碑建立の場所 ◇ 江ノ電・長谷駅から徒歩15分、改札を出て左に向い国道134号線 鎌倉の由比ケ浜海岸の西端、稲村ケ崎の荒磯がはじまる場所で海を見ている。 歌碑の形は小船を模し、青い相模湾に浮かぶ舟の如く形とらえている。 | ||
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・・・藤原定家が『新勅選集』と併せ、「百人一首」にも実朝の代表歌として採った有名な歌である。。 実朝は鎌倉の海辺で見た漁師たちの光景に心惹かれ、鎌倉のこの一風景に苦しい生業を営む海人の生き方に心を寄せて 詠んだ歌と言われている。 都人には見ることの出来ない光景、風景は美しくても、海人たちの暮らしはわびしさをそそる。 眼前の仕事に取り組む海人の姿は、形を変えた自分の姿でもある。無常に翻弄される人の姿・ この歌は、実朝が持つ人生への哀感や共感が自然に溢れ出たものなのである。 ・・・ 《片野達郎解説参照》 (『古今集』(東歌・1088)の歌句を用いている) 『 陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも』 『古今集』(東歌・1088) |