鉄 井 (Kurogane-well) の石碑文の説明


☆ 鉄 井の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


   「鉄 井」は『鎌倉十井』のひとつである。
  水質が良く清らかで 冷ややかな 美味しい、その上盛夏においても水の涸れたことがなかった。
  昔 此の井戸の中から高さ5尺余り(1.6b余り)の鉄製で作った観音像の頭部だけが掘り出されたので
  「鉄(くろがね)の井戸」と名づけられたと言う。
   正嘉2年(1258年)正月17日丑の刻(午前2時頃)に、甘縄にあった秋田城介泰盛 の屋敷から火が出て
、   折からの南風に煽られ、火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺にまで燃え広がり、ひと棟も残さず全焼した。
   更に日の勢いは、「新清水寺」・「窟堂」・「若宮宝蔵」と「同別当坊」等を焼き尽くしたと『東鑑』(吾妻鏡)
  に記されている。
  此処で掘り出された観音像は、この時の火災の際に土中に埋められたものであろう。
  この尊像は、「新清水寺」の観音像と伝えられて来た。
   この観音像は、後日この井戸の西にあった観音堂に安置されたが、明治の初年に東京に移したと言う。

          昭和十六年三月建
                                         鎌 倉 市 青 年 団






【昭和二十二年頃の鉄の井の風景】
「井戸は路隅の一角を仕切り、四本柱は、ナマコ板のささやかな屋根を葺いて、その柱の一つに空き缶が吊り下げ
られているのは、この井戸の恩恵にあずかる人々の喜捨を受けるためのもの、井戸側を覆って手押ポンプをつけ、
コップ、柄杓とバケツなどが備えられていた。

馬力が通って、立寄って、馬力が馬の麦わら帽や肢などに水をかけてやつている様な風景も見られたし、
空缶にアルミ貨を入れて私も水あびさせてもらったこともある。」
 出展;「人形町の大観音」による

【人物紹介】
安達泰盛 (あだち やすもり)      1231〜1285.11.17(寛喜3〜弘安8)

鎌倉中期の武士。父は安達義景、母は小笠原(伴野)六郎時長の娘。安達景盛の孫。城九郎。
宝治合戦の際には、父義景と共に出陣する。
建長五年(1253)父義景死去をうけて、引付衆となる。翌年 秋田城介となる。
康元元年(1256)評定衆となる。
文永三年(1266)六月、北条時宗御亭にて、北条政村・北条実時らとともに、宗尊親王排除
について深密しんぴの沙汰に参画する。《『吾妻鏡』文永3年(1266)6.20条》
娘は時宗の妻となり、貞時をもうける。
宝治合戦後、北条氏以外では唯一の有力御家人として、幕政に大きく関与した。
弘安年間の蒙古襲来の折は、恩沢奉行をつとめる。

泰盛は弘安五年(1282)嫡子宗景に秋田城介を譲り、陸奥守となる。
時宗の死とともに出家、法名 覚真。時宗の死後、貞時の外戚として御内人の内管領 平 頼綱 と覇権を競う。
弘安八年(1285)子の宗景に謀反の疑いがあると平頼綱が讒言したことにより、安達一族は討伐される。【霜月騒動】
泰盛 享年五十五歳。 祖父景盛の影響を受けて信仰心厚く、高野山町石を寄進している。
実朝夫人のために 京都遍照心院維持に尽力している。
『徒然草』一八五段でも「そうなき馬のり」とあり、馬術の名手としても名高い。
また、世尊寺経朝について書道の秘伝の伝授をうける好学の士としても知られている。
【人物紹介】は 出展;「吾妻鏡事典」(佐藤和彦・谷口榮共著)による


【鉄観音】について
【新清水寺】 (しんせいすいじ)
     浄光明寺の前あたりを新清水寺谷と言っている。新清水寺は廃寺なり。
     鉄観音の頭部像は、現在 東京台東区人形町 所在の 「大観音寺」の本尊である。



【鉄観音】は 出展;「鎌倉(32)」(貫祥子「鎌倉十井五名水の研究」参照)による